研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

「申し訳ない」お詫びの感情

 先日、バイトでやらかしました。具体的なことはいえないんですけど、とにかく僕は迷惑かけた人に謝りました。


 一応決着がついたあと、僕は考えました:
「あんなに謝る必要があったのだろうか」

 

 つまり、僕が「申し訳ありません」って言うその理由は、ただ怒られたくなかったからじゃないかって思うのです。
 実際僕は「申し訳ありません」じゃなく、
「申し訳ありません(謝るから許してください)」
 って言っていたんじゃないかと。
 その言葉に、迷惑をかけた相手に対するお詫びの気持ちは消失しています。
 
 昔話をしましょう。
 2年ぐらい前、電車に乗っているとお子さん連れのお母さんが乗車してきました。そのお子さんは兄弟で、下の子が電車内で大声でしゃべってました。それを兄の子が、
「怒られちゃうからうるさくするなよ!」
 って怒ったんです。
 つまり彼の中で、電車内で静かにするのは「怒られないため」という理由からなんですね。

 

 以上の2つの話に共通するのは、自分本位か他人本位かという見方です。
 怒られないために「申し訳ありません」と言う、あるいは電車内で静かにするーーこれは自分本位です。
 一方、お詫びとして「申し訳ありません」と言う、あるいは迷惑をかけない為に電車内で静かにするーーこれは他人本位です。

 

 こう見ると他人本位の方が道徳的だって感じがするんですけど、でも常識的に考えて他人本位なんて無理じゃないですか?
 だってこういう考えが一般的ならルールや法律は要らないはずですよ。
 まあそれは話がデカすぎるけれども、何が言いたいかって言うと、要するに、本当のお詫びとしての「申し訳ありません」を発動することなんて不可能じゃないのってことです。
 別にこれは言い訳とかじゃなくて、あくまで純粋な考察の結果です。

 

 まあ、イデア界とかに行けば「お詫びのイデア」が見つかるかもしれないですけどね……

 

 

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 

 

 

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)