研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

コエカタマリン

 今話題の『聲の形』を読みました。

聲の形(1) (少年マガジンコミックス)

聲の形(1) (少年マガジンコミックス)


 マガジンで読切が掲載された時、ネットで話題になってましたね。あの時の「連載しろ」というがいつの間にかになってたみたいですね。
 単行本が発売されているのを知ったのは、荻上チキ・session22のPodcast*1を通学途中に聞いたからです。授業が終わり、帰りに生協に行ったら、ありましたよ。平積みされている様子だったのですが、なんと残り1冊で、僕が手にとると棚から『聲の形』は消えました。

 さて内容なんですが、上記のラジオでも触れられてたように、いじめの「エスカレーション」を良く描いているんですよね。
 いじめを扱った物語というのは、しばしば何かきっかけがあり、それ以降は「いじめる/いじめられる」の構図が完成している、という感じなのですが、この作品は、確かなきっかけはないけれど段階的にいじめられていく、その様子が生々しいなあと。
 象徴的なのが担任の先生ですよね。いじめっ子を何度も職員室に呼び出して叱るんですけど、最終的には「でも まあお前の気持ちはわかるよ」と言い、いじめに加担しちゃっています。これはたいへんたいへんなことです。
 生々しいといえば、いじめっ子がこんなことを(心の声で)言ってるシーンがありました。

ーー興味が湧いた このまま続けたら あいつがこの先 どうなるかー…

 いじめっ子の心理ってこの言葉に代表されているなあ、と……*2

 しかし生々しさのなかにも一抹の不自然さを感じたりもしました。
 たとえば、補聴器を躊躇いなくぶっ壊したりするという話。小学6年生なんだから「それをやっちゃあおしめえよ」という、超えちゃいけないラインぐらい分かるんじゃないんですかね。
 あとはショウコが優しすぎる(いじめられ続けているにもかかわらず、ショウヤに対して優しい)という話。これは僕が感じた疑問じゃないんですけど、ここがリアリティに欠けると指摘するひとも多いようです。
 これについて、ラジオではこのように言っていました。つまり、いじめてるやつに対して優しくするのは、一種の防衛策なのだと。いじめられるのが嫌なために、土下座して謝罪でもなんでもするからやめてほしいという感情が、あの優しさに現れているのではないかと。確かにそうかもしれません。
 でも僕はハッキリ言って、「ショウコは何をされても優しくなれる女神のような存在だ」それでいいんじゃないか、と思ったりもするんですよね、彼女の笑顔を見ていると(何)
 まあそう思うのもマンガではショウコが可愛く描かれているから、と考えると、現実とのギャップを突きつけられるような気もしますが*3

 しかし、結局いじめっ子は中高でぼっちになっちゃってかわいそうですな。


 なんか結局こんな感想で終わっちゃいましたけど……
 続刊がとても楽しみです。

*1:荻上チキ・Session-22チキチキ道場2013年11月15日(金)『チキチキ道場・特別編』 http://www.tbsradio.jp/ss954/2013/11/20131115-2.html @Session_22さんから

*2:あー、なんか嫌な記憶が蘇ってくる……

*3:小中学生の時、もちろんいじめはありましたが、いじめられる理由というのは本当にわけわからんですね。この作品みたいにコミュニケーションの取れないひとがいじめられるのかといえば、そうでもないし。顔がキモいひとがいじめられるのかといえば、そうでもないし。「標的は誰でも良かった」的な話ってよく聞きますけど(それって僕は懐疑的だったんですけど)、本当かもなあと思ってきました。