研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

なにをすればいいのか分からない(絶対的価値、相対的価値)

ヘイトスピーチが最近になって台頭してきたのは、不景気がひとつの原因なのではないかという考えがあります。景気が悪いので排外主義的なカリスマに人々が吸い寄せられているのかもしれない。だとすれば経済を復活させることがヘイトスピーチをなくす手がかりになるかもしれない。

 

一方、そもそも景気の良し悪しに依ってヘイトをするとかしないとかいった態度そのものは好ましいといえるのか、という問題もあります。もしかしてヘイトスピーチは本当に不景気の影響で現れてきたのかもしれない。しかしそれをリフレによって抑えこむのは本当に正しいことなのか? 本当に正しいのは、景気とは無関係にヘイトを嫌うという正義を養うことではないのか?

 

「景気が悪いからヘイトが台頭←ならば景気を良くすることは一定の効果がある」という図式は、短期的処方箋として機能するでしょう。しかし本質的には何も変わらないのかもしれません。在特会の人々は一時的にヘイトをやめるだけで、景気が落ち込むと再びネットで誹謗中傷を繰り広げるのかもしれません。それはいいことなのでしょうか。その度エコノミストたちは「景気回復がヘイト軽減につながる可能性がある」と主張するのでしょうか。

 

相対的な価値は長い時間において意味を持たない可能性がある。絶対的な価値は長い時間において価値をもつ。すなわち何かに依存して自分の考えを決定することは、そもそも自分自身の統一性を保つことができない。

 

その意味でいうと大抵の人間は相対主義的に振舞っているでしょう。自分の理念を実現するために行動している人なんてあまり見たことありません。例えば日本をどうあるべきか。外国人を受け入れるか排斥か。生活保護はどうなのかなど、社会的問題系においてそれぞれ理念の軸が問われる。逆に言えば、理念をもっていれば一つ一つの問題に対して自分の価値と照らしあわせて意見表明することができる。

 

だから僕は絶対的な価値を見つけたい。10月29日の「飯田泰之×常見陽平×東浩紀『饒舌大陸』ゲンロンカフェ編 言論界2014メッタ斬り『東浩紀さん、言論で食える社会になりましたか?』」でそういうことを考えていました。

 

イベントでは、リフレを主張する飯田さんに対し東さんがそれは何の価値にコミットメントすることになるのかと突っ込むシーンがありました。ここが僕にとってのハイライトで、かなりいろいろなことを考えさせられました。僕にとっての価値とはなんだろうか。僕が金を得て満足したって世界にとってはどうでもいい。僕は何をすればいいのか。僕とは何なのか。知とは何なのか。言論とは何なのか。。。