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研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

ぼっちは人間に興味があるのか否か

「趣味は人間観察」というと孤独を気取ってる馬鹿厨二病という感じがしますが、これは人間に興味があることを必ずしも意味しないと思います。観察って見てるだけじゃないですか。会話しないとその人の本質なんてまったく分からないはずですよ。

   僕は高校時代、あまり人に対して関心を持っていなかったと思います。どちらかというと、その人が何をしたのかということばかりに注目していた。これは2ちゃんねる的なコードに起因していると思います。
   バラエティ番組においてはベテラン芸能人のくだらないコメントで会場が湧く。2ちゃんねるにおいては誰が言ったかは関係ない。だってみんな名無しさんなんだから。ゆえにそこでは誰が言ったかではなく、何を言ったかが重視される。
   そんな2ちゃんのコードに親しみを感じていた高校時代の僕は、クラスメイトにもあまり関心がなかったのだと思います(他方でそんなことはなかったとも思うのですが、閉じこもっていたということは客観的に見てクラスメイトに関心がなかったということなのでしょう)。

   例えば部活の話。文芸部に所属していた僕は、ある日先輩が執筆したとあるSF小説に魅了され、wikiで宇宙物理の記事を読み、シュタゲをプレイし、ハルヒについてSF的な考察をしたりしていました。これはつまり、先輩が書いたSF小説そのものに強い関心を持っていたということです。それはそれで、僕の高校時代を豊かにする出来事でした。
   しかし僕がすべきだったのはそんなことではなかったはずだ。 確かに僕は一方的に良い経験をしたと思っている。けれども僕は、僕自身の中だけで完結してしまっていたのではないか?    それはあまりにも貧しい経験だったのではないか?

   僕がそこで考えるべきだったのはSF自体についてではなく、なぜ先輩がSF小説を執筆したのかということだったのだと、今になって思うのです。「先輩はSFとかお読みになるんですか」と訊けばよかった。それで先輩がSF的な想像力についてどう考えているのかを知るべきだった。
   すべての発言(=文章、小説、など)は無から生まれ得ない。そこには人間の思考や思想が絶対に介在している。だから私たちは、発言のみを取り沙汰するだけで発言を完全に理解することはできない。

   リアルはネットとは明確に違う。発言する他者が目の前にいるかいないか。「そこに人がいる」という事実は人間にとってとても大きな力をもっている。そこに人がいる以上、何を言ったかについてだけを取り上げることはできない。
   その人は一体何を考えている人なのか。どういう思想を持っている人なのか。過去にどんなことを言ってきた人なのか……それが重要だ。そして私たちは、その重要性を忘れかけているのではないかと思う。