研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

『知らない映画のサントラを聴く』とドゥルーズ

 表紙が綺麗な本。

 

知らない映画のサントラを聴く (新潮文庫)

知らない映画のサントラを聴く (新潮文庫)

 

  読んでる途中は面白いのだけど、読み終わってから何処が面白かったのかを考えると特に思い浮かばないという類の小説。

   ぼくは竹宮ゆゆこの本はゴールデンタイム1巻しか読んだことがなく、しかもそれも文体がクソすぎて途中で通読を放棄したという経験があります。しかしその経験はなんだったのかというぐらいに本作は読みやすいです。

 

 ギャグ漫画のようなセリフ回しがあるかと思えば、亡くなった友人を追悼する心理描写が淡々と続くところもあり、結構読みごたえがありました。

「あの時私が回ることを止めなかったら」。本作では「回転」を一貫したテーマ・モチーフとして扱っています。「知らない映画のサントラ」を聴くシーンが最後にありますが、それはもちろんCDを再生して――回転させて――聴くわけです。

 

 また主人公がビワ、兄がキウイ、義姉がチェリー、母がマンゴー、父がパパイヤというミックスジュースのような家族構成も注目に値します。ビワだけ日本の果物名で溶け合わない感じがしますよね。ビワは弾かれるけれど、他の果物は融和する。それが家族に追放されるビワを暗に示していると思いました。

   また、ミックスジュースはジューサーの中で出来ますよね。ジューサーも回転するものなわけです。それが「回転」のメタファーであることも連想できます。

 

 ところで話は変わるのですが、最近ジル・ドゥルーズという哲学者の入門書を読みました。彼は「中心を持たず」「ただ生成していく」ような個のあり方を追求した人物なのだそうです。

   従来の哲学は「私とはなにか」「個とはなにか」を考えていました。しかしドゥルーズは、散らばった個はそれぞれがそれぞれの特性を有しており、共通の中心性や「私」性なるものを持たず、「私」に依存しない単数的個体性のみがそこにあると考えました。

   また、「無限の速度での俯瞰」という言葉を用い、人は速度を維持しながら、つまり動き続けながら(生成しながら)「個」を生きる――すなわち動き続けること自体が生きることである――というようなことを言っていました。

 

 ここで注目すべきなのは「中心がない」というところです。先の「知らない映画のサントラ」のCDを思い出してください。CDは中心がありませんね? 穴が空いていますね? また、CDは回り続けていますね? 音の波を生成し続けていますね?

   そうです、『知らない映画のサントラを聴く』はドゥルーズの哲学をメタファーのレベルで引用した、たいへん批評的な小説なんです!   ……完全にこじつけですが。

 

 ということで、ぼくとしてはたまたま同じ日に読んだ二つの本がけっこう近い位置で交叉していて、その2冊が相互に刺激しあうという奇妙な読書体験でした。