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研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

孤独感の連帯という欺瞞ーー孤独のグルメから考える

  孤独というのはいいものだ。ドラマの冒頭でも言われている。

「時間や社会にとらわれず、幸福に空腹を満たすとき、つかのま、彼は自分勝手になり、自由になる。誰にも邪魔されず、気を遣わずものを食べるという孤高の行為。この行為こそが、現代人に平等に与えられた、最高の癒しといえるのである。」 

 良さ良さ~。やっぱりおいしいものにひたむきに向き合う姿勢って素敵だよね。ドラマで出てるこのお店、ほんとおいしそうだなあ。よし、今度一人で行ってこよ! 

 そして人々はツイッターやブログやインスタに写真を上げる。 

 ……なぜだ!? オマエはひとりで楽しみたいからひとりで飯を食いに行ったんじゃないのか!? 

 ひとりで楽しむっていうのは言葉のまんまひとりで楽しむってことであって、その楽しみをシェアしてもっと楽しむっていう第二次快楽みたいなのは必要ないと思うんですよね。だって本当に楽しかったら写真をアップしたりする必要ないじゃないですか。いや、もっと言えば写真を撮る必要さえない。本当の思い出は記録じゃなくて記憶の中に宿る。圧縮されたデータの中には複製された現実しかない。ぼくたちはもっと目の前の孤独を、世間とは隔絶された無上の喜びを、網膜を突き抜けて脳みそに焼き付けなければならない。そこまでやって初めて孤独のグルメは達成される。 

 ……とぼくは思うんですが、「いや、孤独は孤独で楽しんでるよ。でもシェアするのは別だよ。それはそれで一つの楽しみ方じゃん」と言う人もいるかもしれません。 

 しかし待ってくれと。孤独をシェアする。それってどういうことだと。「ひとりでいるのって楽しいぜ!」とツイッターに書くということ。それは孤独という言葉の定義に違反していないか。孤独はひとりの胸の中にひっそりと秘められているからこそ孤独なのだ。孤独感で連帯しようとしたその瞬間に語義矛盾が発生しているということに気付いてほしい。孤独をシェアした瞬間、オマエがシェアしたものはすでに孤独ではなくなる。それは有象無象のプライベートの切り絵でしかない。 

 しかしそうはいっても自分が楽しんだことは人に教えたくなるのが社会的人間の性なんですね。ぼくも最近、スキマスイッチ全力少年を聴きながら秋晴れの新宿御苑を歩き、プラタナスの枯れ葉が積もったフランス式庭園のベンチで村上春樹を読みたいへん気持ちがよかったという話を友達にしたら、「二十歳にして人生の幸せを知ってしまったな」と言われ、なんか楽しかったです。 

 楽しかったですってオマエ、さっきまでさんざん孤独をシェアしてるやつを罵倒しといてそのハンドルの切り方急すぎるだろって感じですけど、ぼくが最近考えているのはそういうことなんです。つまり、

   孤独感の連帯を求めるのは孤独に対する冒涜である。けれどもぼくたちはひとりの楽しさを人に語らずにはいられない。

   なぜって?
   
   それはぼくたちが本質的にさびしい人間だからです。やむを得ない。