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研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

「映画? レンタル始まったら見るわ」などと言っているひとが馬鹿である5つの理由

考え事

映画はできるだけ映画館で見た方がいい。その理由を5つ挙げます。

 

1.臨場感のある音楽を楽しめない
2.スクリーンならではの映像美を楽しめない
3.流行についていけない
4.予告を楽しむ余裕がない
5.周りの観客の反応を見れない

 

それぞれ解説していきます。

 

1.臨場感のある音楽を楽しめない

映画は映像と音楽の複合メディアです。何が映っているかだけではなく、音響のよさにも注意してこその映画鑑賞と言えるでしょう。
その点、BDを家で再生しているだけの鑑賞スタイルは映画の本質を見逃していると言えます。


確かにいまは優れたヘッドホンやスピーカーを家に配備することも可能です。ぼくも5.1chヘッドホンで映画を見たことがありますが、本当に映画の中に入っているようでした。後ろで爆発が起きたら後ろを振り返ってしまうぐらいには。


けれども映画館に及ばない点があります。それは音圧です。立川の爆音上映が最近流行っています。ぼくは不覚にも立川には行っていないのですが、そこらへんのシネコンでも映画館ならではの音圧を感じることは可能です。


例えば2014年の『インターステラー』は、監督が意図的に音割れを用い、臨場感を演出するという試みをしました。これをもし家でそこそこの音量で楽しんでいたとしたら、「なんか音変じゃない?」ぐらいの感想で終わってしまいます。でもぼくはこれを劇場で観たことで家では味わえない臨場感を味わいました。したがってホームシアターはだめ。

 

2.スクリーンならではの映像美を楽しめない

家で見る映画と映画館の映画の一番の違いと言えば、やはり液晶画面で見るかスクリーンに投影して観るかという点にあります。


まあ最近では家庭用プロジェクターとスクリーンも安価で手に入るようになりました。家が映画館になるからわざわざ映画館に行く必要なんてないという向きもあるでしょう。


けれども家で展開するスクリーンにも限界があります。映画館と同じぐらい大きなスクリーンを展開するには、映画館みたいな家を借りるしかありません。そしてそんな家はふつうありません。


映画館のスクリーンは大きくて迫力があります。ぼくは『進撃の巨人』で初めてIMAXを観たのですが、画面がただでかくなるだけでこんなに違った映像体験ができるんだ、と感動しました。


IMAX上映は、本編が始まる前にチュートリアル的な映像が流れます。見たことある人は分かると思いますが、「それではみなさんをIMAXの世界にご招待します」みたいなナレーションが入り、飛行機が奥から手前、背後まで飛び立ったり、小さな針が落ちてバウンドしたりするCG映像が流れます。この時点でIMAXが通常の映画とは全然違うということがわかります。


そういう新たな映像体験を蔑ろにしホームシアターで満足している人に映画好きを名乗る資格はないと言えます。

 

3.流行についていけない

BDレンタル開始は、早くても公開日から3か月後とかです。レンタル開始してから見ても流行についてこれていないことは明らかです。

 

最近はラブライブの映画が劇場公開中にもかかわらずレンタルが開始されるなど混迷を極めていますが(新宿ピカデリーでは上映最終日が12月31日、レンタル開始が12月24日)……さらには「旧作料金になるまで待つ」などと言うようでは、上映から1年半は待たないといけません。そんなスピード感でいいのでしょうか

 

4.予告を楽しむ余裕がない

ご存知の通り映画は始まる前に数々の予告映像が流れます。映画館にひんぱんに行っているひとたちは、その予告を見ることで次なる鑑賞計画を立てます。こんなおもしろいのやってるんだあ、じゃあ来週観に行こうかな、と。

 

さらに映画館は館内そのものが巨大な広告として機能していますシネコンのエレベーターを上がるたびに、壁に大きな映画のポスターが貼られているのを目にすることができます。そういった物を見て鑑賞意欲はさらに刺激されます。

 

ちなみにこの構造は芸術系プラットフォームではどこも同じです。演劇でもトークイベントでもライブでもなんでも。欲望はそういった場所に行かない限り植えつけられません。目的意識をもって検索するのもいいでしょう。けれども大事なのは、自分も気付いていなかった欲望に気付くことです。そういった予想外の欲望は、映画館に行かないと見つかりません。

 

BDにも予告映像はついていますが、みんな飛ばすでしょう。それは映画というコンテンツを楽しむことだけが目的になっているからです。本当に映画が好きなひとたちは、映画を観るという行為とそれに付随する欲望の増殖も目的に含めて映画館に足を運びます。それができていないという点で、ツタヤレンタル開始待機勢は愚かであるといえます

 

5.周りの観客の反応を見れない

「映画? レンタル始まったら見るわ」などと言っているひとが馬鹿である5つの理由を長々と書いてきましたが、ぶっちゃけ今までのは全部詭弁で、この最後の5つめこそが最大にして唯一の理由です。というかぼくは映画館に求めているものは(まあ臨場感も多分にあるんですけど)やはりほかの人たちの反応です。

 

例を2つ出します。

 

2014年11月、大学2年生のぼくは、経済原論というくそつまらない授業をひとりで受けていました。内容はほとんど1年の時にやったミクマク経済の話と、ブラック企業がどうのこうのという話でした。そしてある時、あまりの退屈さに「こりゃもう耐えきれん」と思い、授業中に教室からの脱走を企てました。といっても教科書とプリントをカバンに詰めて堂々と教室をあとにするだけです。でもぼくはただ逃走するだけのことはしたくなかった。それでなんとなく映画でも観に行くかという気分になり、ちょうど3限が終わったころに上映開始される『インターステラー』の座席をスマホで予約しました。そして映画を観に行くという目的意識のもと、颯爽と学校を出て、新宿ピカデリーに入館。

 

平日の昼間だったので客はあんまりおらず、暇なおじさんや大学生がいるのみでした。ぼくの一つ後ろの席に5人の男女の若者が座っていました。恐らく大学生でしょう。彼らは上映前にぺちゃくちゃと喋っていました。端的にうるさいと思いました。予告が流れている時もひそひそ喋っているのが聞こえてきて、あーリア充滅びろと思いました。しかし本編が始まるとさすがに彼らも静かになりました。

 

上映が終わり、ぼくは眼鏡を外し、静かに目のふちをシャツの袖でぬぐいました。鼻をすすりました。この映画の感想を述べるのは別の機会に譲ります。ぼくは荷物を持ち、席を立ちました。その時です。後ろから女性の嗚咽が聞こえてきました。さっきのうるさかった大学生です。彼らは、彼女たちは抑えきれない感動を身体的に流していました。ぼくと同じように。それを見たときに、ぼくは彼らとの連帯の可能性を感じました。というのは大げさかもしれません。けれども、ぼくが映画館で映画を観ることに価値を見出したのはこの体験がきっかけだということは間違いありません。

 

もう一つ。

 

2014年12月、『ゴーン・ガール』を観に行きました。たいそう怖い映画で、中盤でグロテスクな描写がありました。男の首から鮮血が噴き出し、断続する地響きのようなBGMが恐怖を煽るのです。ぼくもそのシーンは顔をゆがめました。そのとき、ぼくの左隣に座っていた女子大生っぽいひとが、顔を手で覆ってうずくまっているのを発見しました。彼女は震えていました。隣に彼氏でもいるのかと思いきや、誰もいませんでした。彼女はひとりで来ていました。

 

そういうひとを見ることができるのは、まちがいなく映画館だけです。

 

以上、映画を映画館でみるメリットを紹介してきました。でもぼくがいいたいことはひとつしかありません。それは、「偶然性に身を任せろ」ということです。

 

見たいと思ったものだけ見ようとするのは賢いことです。有象無象のコンテンツが氾濫した今、本当に自分にとって価値があると確信できるものだけを主体的に選択し、効率的に効用を高めていく。それは人生の満足度に寄与することだと思うし、そうして人類は発達していくんだと思います。

 

でもそうした効率化の先にあるのは、自分はいったい何が好きなのかわからず、自分が何者かわからなくなる未来だと思います。自分の奥底に内蔵されているとされている自明の価値観に基づき、それと一致するものだけを追求していくと、いつか人間は欲望を充足することになります。

 

それはそれでいいんです。問題は人間の欲望は尽きないということです。尽きない欲望のカップはすさまじく大きい。それを満たすには、自分の価値観と一致するものだけでは足りません。カップが満たされないと気付いたとき、ひとは自分が信じていた自明の価値観が失効したことに気付きます

 

これがいわゆる自分が何が好きなのかわからないということであり、自分が何者かわからないということになります。だからぼくは偶然性に身を任せることが大事だと考えます。人は欲望を満たす生き物だ。その欲望のカップを満たすには、今まで自分が気付かなかったものに気付かなければいけない。そしてそれは、自分の価値観というソファに座っているだけでは気付かないのです。

 

だからぼくはこう言いたいんです。映画館のシートに座ろう、と。映画館には自分の知らなかった映画や、名前も知らないひとたちが映画に対してさまざまな態度を取っています。それらすべてが、ぼくたちに偶然をもたらすのです。