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研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

リップヴァンウィンクルの就活

 今日は某企業の説明会でした。あまり興味はないところなのですが、志望業界だったので行ってきました。会場に入って、机の資料をパラパラとめくっている時、何かの違和感をもつ。なんというか……右翼? 学生のうちに読んでおくべき本とか言っておくべき場所とか親にしておくべきこととかのリストがあって、なにか古き良き日本を志向する感じがありました。この時点でけっこうやばいなと思い逃げ出したかったのですがそんなことするわけにもいかないので「まあこれも経験か」と思いながら座っていると説明会が始まる。

 壇上にあがった女性は一通りの挨拶をしたあと、「皆さん緊張されているので隣の人と1分間の自己紹介をしあってください」と僕達にいった。こういう説明会があるということは知っていたが、実際に体験するのは初めてだ。ところで僕はこの企業には全然興味がなかったので緊張はしていなかった。物見遊山という言葉がこれほどふさわしい状況もないなと思った。壇上の女性がスマホでタイマーをセットし、自己紹介が始まる。隣の女の子はすごいにこにこした笑顔で、

「じゃあはじめましょうか。どっちからにします?」といった。

「どっちでもいいですよ」

「じゃあじゃんけんしましょうか」

「そうですね」

「最初はグー、じゃんけんぽん!」僕がグーで彼女はチョキだった。「あー……勝ったらどうするか決めてなかったですね」

「そうですね」

「じゃあ私からやりますね!」

 そうして彼女は大学、名前、出身などを話した。僕もそれに倣って自己紹介をした。僕が話している時に壇上のスマホが鳴り響き、自己紹介タイムの終了を告げた。

 それから先は社員による自分の仕事の話、質疑応答、社長のありがたいお言葉(長い)などがあった。途中、休憩が挟まれた。隣りに座っていた女の子は積極的に社員に話しかけ自分を印象付けようと試みてており、この会社への志望度の高さが伺えた。僕はその様子を遠くから見ていた。僕は自分がとても冷めた目をしているのだろうなと思った。隣にいる女の子は、僕の大学より1ランク下の大学だった。加えてこの企業は一般人は誰も知らないBtoBの中小企業だった。べつに僕は自分が一般人が誰でも知ってるBtoC企業に入れるとは思っていない。だけど、大学のランクが一つ下というだけで、たったそれだけのことで、恐らく地頭の良さとか要領の良さとかは大して変わっていない(むしろ彼女のほうが良い可能性だって十分にある)だろうに、所属団体の名前だけで、そんな風に人の見方が変わってしまう。学歴の持つ意味の重さを、就活を迎えた大学4年生になってはじめて理解した。きっと学歴で人の能力に先入観を持ってしまうのは僕だけではない。世の中はそうなのだろうと思った。どんなにバカっぽくても、明治大学なら能力がありそうだとか思われるのだろう。

 そうして説明会が終わった。その会社はなかなかすごくて、第一次選考がこの説明会終了後にシームレスに行われるのだそうだった。簡単な面接があるらしい。選考を希望しない人は説明会にありがちなアンケートを一通り書いたあと退出してけっこうです、とのことだった。僕はアンケートをなるだけ丁寧に書き、貴重なお話を賜ったということを記し、荷物をまとめて椅子を引いた。その時、隣の女の子が笑顔で――とても可愛らしい、印象に残る笑顔で――僕に手を振った。

「じゃあね」

「じゃあね」

 そうして僕は雑居ビルを出た。

 タバコを吸いたくなった。僕は女の子のことを考えるとタバコを吸いたくなる。断っておくがこのエントリはリクラブの話ではない。そのことを前置きした上で話す。

 もう二度と会えないであろう人に精一杯の別れを告げること、それを僕は一期一会3.0と読んでいることは過去すでにこのブログで述べた。この一期一会3.0の成立にはバイト先のお姉さんが退職したという事実が基盤になっている。それはいいとして、僕はこの一期一会3.0の成立以来、もう二度と会えないであろう人にはちゃんとさよならを言おうと努力してきた。しかしそれができないことが多々あった。例えば自動車教習所の教官。例えばバイト先の同い年の女の子。例えば……

 そういうことをしてきた。しかしこの時、説明会の席を立とうとした時に隣の女の子に手を振られて思ったことは、一期一会3.0はなんて残酷なんだということだ。

 きっとこの子とは一生会わない。あったとしても人混みですれ違うとかだ。しかしお互いに顔は覚えていないだろう。それどころが説明会で隣同士になったということさえ僕たちは覚えていないだろう。

 そうなのに、どうせもう二度と言葉を交わすことはないはずなのに、彼女は、僕たちは、別れの挨拶を告げる。

 僕はそれがとてつもなく悲しいことのように思えた。

 確かに笑顔でさよならを告げられることは、嬉しい。こんな短時間でも僕の存在が相手のなかに何かを残したというのなら望外の喜びだ。それは言い過ぎにしても、本来どうでもいいはずの僕なんかに挨拶をしてくれたのは単純に気持ちが良かった。

 けれどもそれは一体何の意味があるのだろうか? 僕は彼女の挨拶に対して笑顔を作って「じゃあね」と返すことしかできない。彼女の善意……自発的な笑顔のさよならに対して、戸惑いながらオウム返しをすることしかできない。その時、僕は自分の不能感(お返しができない)と、罪悪感(相手の無償の贈与に耐えられない)を抱いた。

 

 ところで昨日、『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観た。すごくいい映画だったのだが、鑑賞後に買って読んだパンフレットに書いてあった宮台真司による批評がとても良かった。曰く、この作品は「世の中には実はすてきな幸せがたくさんあるのだけど、それを無自覚に受け取る自分に対する自責の念に耐えられないから人は自壊していく」のだそうだ。詳しくは映画を見てパンフレットも見て欲しいのだが、劇中、登場人物がこんなことを言うシーンがある。「コンビニの店員さんに商品渡したら勝手に詰めてくれるし、あそこまで届けてくださいっていったら届けてくれるし、そういうのに耐えられないからお金を払ってる」

 無償の贈与に人は耐えられない。だからその対価を支払うことで、「贈与」を「交換」にしていくのだ。そうして人々の心の平穏は保たれる。

 それで言うと、どうだろうか? 僕は今日、説明会で隣の席に座っている女の子から無償の贈与を受け取った。しかし僕はそれに対して何の対価も払っていない。僕はあったばかりのこの女の子から、どうしてこんな笑顔の挨拶をしてもらう権利があるだろうか?(いや、ない)

 思えば僕はいつもいつもこうした無償の贈与的なものに違和感を覚えていた。高校2年生の時、隣の席の女の子が「おはよう」と話しかけてきた。

僕は「おはよう」といった。

「何読んでるの?」

 僕は読んでいた文庫本のカバーを外し、表紙を見せた。

星新一、あたしも読んでたよ。いいよね、読みやすくて」

「うん」

 そんなやりとりが3日ぐらい続いたのち、彼女は僕に話しかけなくなった。僕が話さないからだ。

 なぜ彼女が僕に話しかけてくるのか意味がわからなかった。僕はべつに彼女の気を引くようなことをしていない。ただ同じクラスで、席が隣だっただけだ。彼女が僕に話しかけてくる意味がわからなかった。

 それは無償の贈与だった。交換を求めない、純粋な贈与だった。世の中はそんな風に幸せに満ちていた。幸せだった。

 僕はそんな世界はありえないと思っていた。彼女は僕に話しかけることで何を企んでいるのだ……という疑いさえもっていた。僕に何を求めているのだ、と。

 ところが世界は美しかった。そんな幸せ、あるんだ。僕はそういうことを知らなかった。そして世の中の大抵の人も僕同様にそのことを知らないが、無自覚に幸せを生きているということを知った。

 話を戻そう。

 といっても言いたいことは全て話した。要は僕は、世の中が実は素敵だということを知った。だが僕は世界が素敵であるということに気づいてしまったがゆえにこの世界を生きられない。人々の無償の愛に気づいてしまったがゆえに、自分の不能感に耐えられない。

 そんな日でした。