研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

『君の名は。』感想

まあ前提として僕たちは新海誠が最高の作家だということを知っているわけです。

だから今回の鑑賞もその「答え合わせ」に過ぎませんでした。

「やっぱり新海監督は最高だぜ!」と。

したがって特に語ることはないのかもしれません。

新海監督の作品といえばやはり背景の美しさが特徴です。それは初期作の『彼女と彼女の猫』から意識されていることでした。監督自身、さまざまな媒体のインタビューで「仕事を頑張っている人たちが見過ごしてしまう都会の風景の美しさを描きたかった」ということを言っています。

そしてそれは『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』にも継承された思いでした。他方で都会から遠く離れた田舎的なものだったり自然的なもの、あるいは宇宙的なものの美しさにも同様のこだわりが見られます。それは『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』で精緻に描かれています。本作は都会と田舎の両方が舞台になっており、それぞれの風景の美しさも見どころです。

ところで都会と田舎といえば『秒速』もまさにその両方を描いた作品です。また本作は秒速を意識させるような描写が多々あり(遠くはなれた場所の若い男女が社会人になってから東京で出会うシーンなど)、過去の自分を超克し新たな表現を模索しようとする監督の意気が伺えます。

また新海誠といえば、ゼロ年代に「セカイ系」の代表作(『ほしのこえ』)の作家として批評界隈で有名になっていました。セカイ系とは「君と僕」的な恋愛的で小規模で閉鎖的な関係の動きが世界とか宇宙の動きと連動するような作品のことですね。例えば彼女が死んだ時地球に隕石が降ってきて破滅する、みたいな。*1

ほしのこえ』ではそういったテーマに加え携帯電話のメールというギミックがあったんですね。この作品は2001年に発表されたものでした。ちょうど携帯メールが普及しだした頃で、まだ人々もこのメールというものをどのように使いこなせばいいのか分かっていなかったんですね。いつでも手もとに持っておくことができて、一瞬で遠くの人にメッセージを送ることができる、そういうテクノロジーにインパクトを与えられた時の衝撃や戸惑いを描いていたわけです。

とはいえほしのこえはそんな社会批評っぽい文脈で描かれていたわけではなかった。むしろこの作品の中で携帯電話というのは、「すぐつながれるはずなのに全然つながれない」ものとして描かれていました。だって主人公は地球にいて、女の子は遠く離れた宇宙の星にいたんですから。むしろその世界では、携帯電話は不能性の象徴として機能していたんですね。ではそこで二人を繋ぐものとは何だったのか。それこそが意味不明なセカイ系力学の謎パワーだったんですよね。携帯の電波の速度とかを超えて二人の距離が一気に短絡してしまう「ここにいるよ」感、それこそが「ほしのこえ」のヤバさであり、ゼロ年代セカイ系と呼んだものだったわけです。

話は飛びますが新海誠といえば内向的な思春期男子が女の子に寄りかかって「やっぱ君がいないとダメだよ、オレ……」みたいなのを描く童貞オタク文学って感じがあるかもですが、僕の考えではむしろそれは反対で、新海誠ってそういう内向的な男がなんやかんやで一歩大人になっていくのを描いている作家だと思うんです。それはどういうことかというと、主人公と女の子の間に物理的な近接性はなくても思い(あるいは思い出)があればオレは頑張っていけるよ、みたいなことです。

ほしのこえ』では携帯はつながらないけれども「ここのいるよ」感で俺たち頑張るよってなります。『秒速』では小田急線の向こう側に君は居なかったけど最後にひと目見ることができてようやく決着を振り切ることができたよってなります。『言の葉の庭』ではもうユキノ先生はいなくなっちゃったけどオレは靴を作り続けることでユキノ先生がこれからの人生を歩く手助けをすることができたよってなります。どれもこれも結局主人公のそばに女の子はいないんですけど、主人公は前向きなんですよね。だから新海誠は実は大人な男を描いている作家なんじゃないかなあと、そう思うんですよね。

それでじゃあ今回の『君の名は。』にそういう、主人公が大人になるような話があったかっていうと、なんか僕はあんまりそういうのはないような気がしたんです。まあ今回ダブル主人公というのもあってあんまり描写するのもできなかったのかもしれないですが。なんというか、物語の後半は二人が互いに会いたい! っていうのだけを原動力に話が展開しているように思うんですよね。それぞれがそれぞれの孤独の中で相手との距離について考えたりするところがあまりないというか。

そういう意味で今作のダブル主人公はどちらもわりと普通の明るい高校生ですよね。裏表がないというか、あんまり胸の奥で人間関係について悩んだりしなさそうな感じがします。だから物語に深みがなかった……と結論付けるのはいささか雑ですが、しかし今回の主人公はちょっと、いやかなりリア充よりですよね。それで捨象されてしまった新海誠ならではの良さがあったんじゃないかという気がします。まあ今回かなりメジャーになってきましたからね、前作と比較して『言の葉の庭』って期間限定で一部の小さな劇場だけでやっていたような気がするのですが、今回はめちゃくちゃ広告打ってたくさんのシネコンで上映されていますからね。

余談ですが僕がみた劇場にもカップルが沢山いて、なんかコレジャナイ感はありましたね。新海誠作品はそういうもんじゃないだろうと。なんかこじらせたやつが一人でこそこそ観に行くもんだろうと。いや当然新海監督としてはいつまでもそんなインディーズバンドみたいな仕事ばっかりやってるのは本意じゃないと思います。僕も言の葉を見た時、このような映像を作る新海監督のことをより多くの人にぜひ知ってもらいたい! 新宿の3つのシネコンでロングラン上映されるようになってほしい! とか思っていたのですが、実際そうなってみると、古参ファンがアーティストのメジャーデビューを知り嬉しい反面悲しくもある、みたいなアンビバレンスに陥ってしまいました。だからゼミのリア充ツイッターで「君の名は。いいなあ~誰か誘って!わら」とか言ってるのを見ると、なんかよそ者がオタクたちの聖域に入り込んできたような拒絶反応を示してしまうわけです。

ところでこんな偉そうに語っていますが、実は僕が初めて新海監督の作品を見たのは2014年の3月なんですね。友人の紹介で秒速を見たんですが、最初はストーリーにはあんまり関心を持たなくって、もっぱら風景の綺麗さのみに惹かれていたんです。僕自身新宿住みということもあり、住友ビルの辺りとかが登場してうおーすげーってなってました。また言の葉の庭ではドコモタワーの明滅する赤い航空警告灯とかがすごくきれいでこれまた素晴らしい、ってなって何回も繰り返しBDをみていたわけです。都市の美しさを見るためだけに。現実の風景ももちろん綺麗なんですが、それ以上に綺麗に見せてくれるんですね、新海監督の描く風景は。それが現実以上に華美に描いているからなのか、それとももともと現実がすごく美しいということにいままで僕達が気づいていなかっただけで新海監督はただひたすらに写実的なだけなのか、まあ後者だと思いますが、それでもある種のクリスチャン・ラッセン的な磁場が視聴者を引き寄せていた側面もいままであったと思うんですね。つまり、シナリオはともかく背景が綺麗ならオッケーであるという考えです。

しかしそれじゃいかんだろうと思い(製作する側の問題としても、見る側の態度の問題としても)、いろいろ新海作品を見ていった結果として、さっき書いた「女の子からの独立」というテーマがあるんじゃね? と思ったわけです。そういえば言の葉のコピーは「恋よりも昔、孤悲の物語」だったと思うんですが、それってまさにそのテーマを言い得ているような気がします。物理的近接性をいったん断ち、二人がそれぞれ孤独に悲しむことこそがじつは「ここにいるよ」的共感、すなわち恋につながっていくのだと。そういや芋づる式に思い出したのですが言の葉のテーマって、震災後にやたらと絆が大事だとか無根拠に言われてきたことに対する新海監督なりのアンチテーゼだったらしいですね。2年前に三島の新海誠展の展示で読みました。というわけで新海監督も別に背景の美しさとかだけで人を引っ張ろうとしているわけじゃないということがわかったわけです。

閑話休題、とにかく新海作品には風景ポルノだけじゃなく思想が必要だと思うわけです。思えばそれは『ほしのこえを聴け』で東浩紀がすでに指摘していたことでしたね。オタクたちが好きなものをちりばめているだけで、確かに人気にはなると。しかしその先に関心を持ちたい。そういうデータベース的製作を超えたところに作家性は宿るのだと。

そういう意味で言うと僕は秒速とか言の葉とかには新海監督のメッセージ性が色濃くあったと思う。でも今回はどうか。まだ良くわからない。

というかこの文章自体、読んでいる人は分かる通り、鑑賞して間もなくあまり考えずに書いている。というのは諸般の事情であす、というか日付回って今日からしばらくバタバタして文章を書く機会が失われるため、いささか駆け足でキーボードをかちゃかちゃ叩いているのだ。だからあんまり「君の名は。」に関して思考がまとまっていない。ついでにいうとパンフレットも買ったけど読んでいない。『新海誠ウォーカー』もユリイカ9月号も買ってない。あと今作の着想を得たという大林宣彦の『転校生』も見ていない。

ただひとついうとすれば、やっぱり最後の二人が声を掛け合うシーンはちょっと違うんじゃないかなあ……いや、確かに大筋の物語が「二人がお互いに出会う」という目的でドライブされている以上、それがゴールに設定されるのは当然なんですけど、それで? っていう感じは……正直ありました。それよりも物語70%ぐらいのところで出た「あれ? 名前が思い出せないよ……」っていうのをラストに持って行ったほうがなんか悲しげでよかったんじゃないかって思ってしまいました。

というかここまで書いてて悲しくなってきたんですが、それはなぜかというと、僕は新海監督のことが大好きでサイン会で手書きのファンレターを送るぐらい好きなのに、今作に関しては良い点をなかなか見つけることができないというところにファン失格感を抱いてしまうからです。なぜだ! 僕は新海さんのこと大好きなのに! いや、新宿の描写とか最高でしたよ? LOVEオブジェ前の交差点の朝~深夜を高速タイムラプスで写すところとか、新宿南口を俯瞰で写すところとか。今年4月にできたばかりのNEWMANまでちゃんと描いていてね。素敵でした。あとユキノ先生が「ユキちゃん先生」として出演していたりね。あれもファン的に素晴らしかった。あと言の葉を意識させる描写、例えばみずみずしそうなトマトを包丁でザクッと切る所とか、黒板にチョークで文字を書くところを接写して粉が削れて落ちていくところまですごく細かく表現していたりとか、そういうのもあって「アッ! ここ言の葉だ! 新海ファンだからこそわかる表現!」とか思って一人でニヤニヤしていたんですけどね。

でもなんかグッとこなかった。それが悔しいんです。すごく面白かったんですけどね。いやすごく面白かった。設定も良かった。入れ替わって、日記を書いて互いの状況を理解するというところとか。タイムスリップものの王道じゃないですか。僕も高校生の時そういう小説を書いたりしていましたからわかります。過去に戻って、未来の自分のために日記を書き残したりね。でも、繰り返してしまうけどなぜかグッと来なかった。どうすればいいんだろう僕。くそ。まあとりあえずいろんな人の感想とか読んでゆっくり考えることにします……

 

ちなみに主人公の瀧くんがバイトしていたお店ですが、ここではないかと思われます。

tabelog.com

ホールの様子が映った時にティンと来ました。まあ中に入ったことはないんですけどね。

 

 

 

*1:これは『君の名は。』の設定と完全に符合します。新海誠君の名は。セカイ系に回帰したのです。その意味では新海誠の本流にある作品であると言えます。セカイ系の始祖たる『ほしのこえ』でデビューした彼がこのような設定の作品で華々しいスマッシュヒットを打ち出したのは素晴らしいことであると思います。