研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

『何者』から考えた創作者のあるべき姿

『何者』を観ました。


僕は2年ぐらい前に原作を読んだのですが、当時は結構な衝撃を受け、就職活動というのはなんとたいへんなイベントなのだろうと思いました。


あれから2年経ち、実際に就活を経験した自分がどのように『何者』を読むのか興味があり、観に行きました。


上映前にyoutubeで予告編を見たのですが、「青春が終わる」「人生が始まる」というコピーにはっとさせられました。

そうか、学生生活っていうのは人生ではなかったのか。人生はこれから始まるのか、と。

 

では青春ってなんなんだろう。青春と人生って何が違うんだろう。

この問いに対して、人は思い思いの回答を自分のなかで見つけると思います。

 

僕もなんとなく回答めいたものを考えました。そして映画鑑賞後には、少し違う回答(それは単に内容が違うというよりも、視点のレベルが違うという意味で)を僕は得ました。

 

結論からいうとそれは、「僕たちはもう100%を目指し続ける猶予を与えられない」ということです。どういうことでしょうか。


映画のなかで、たかよしという意識の高い男とギンジという演劇をやっている男が出ます。

たかよしとギンジは2人で新しい仕事(それがなんなのかは明示されていません)をしようという話になるのですが、しばらく経ってその交渉は決裂します。そしてたかよしは別の友達に対し、「ギンジは質の低い演劇を量産している。ネットでも評判が悪い。俺はじっくり時間をかけていいものをつくろうとしてきた。そこがギンジとは合わなかった」と説明します。


たかよしはこれに限らず、じっくり時間をかけようとする奴です。彼は就活をせずに、人脈を広げ、SNSでセルフプロデュースすることによって現在の不安定な社会をサバイブすることこそが大事と主張しています。


そんなたかよしに対して、みづきという女の子がこう言い放ちます。


「そうやって表現しようとする人を馬鹿にしないでよ。たかよしくんは100%をつくろうっていうけど、言うだけじゃなにもしてないのと同じだよ。10%でもいいからギンジくんみたいに表現しなよ。いままでは学生っていう身分に甘えていられたかもしれない。でもこれからはそうはいかない。私たちはもう、そういうところまで来てるんだよ」

 

そして主人公がそれに続けて、「頭のなかにあるうちは、どんなものでも傑作だ」といいます。

 

みづきと主人公がなぜこのような台詞をいったのかということにも理由があるのですが、それについては実際に観てもらうとして、僕はこのみづきの台詞に雷に打たれたような感銘を受けました。

 

僕は高校の頃からサークルで小説を書いていました。

最初は短い小説をたくさん書いていました。そうやって作文の作法を覚えて行きました。でもある時から、自分のなかで納得のいく長編を書こうとしはじめ、じっくり時間をかけていきました。

そのなかで、「これだけ時間をかけたのだから絶対に低い評価を受けてはならない」という感情が発生しました。

そしてその感情がいつしか、「評価されるのが怖い」というものに変化しているのを発見しました。

 

みづきの台詞は僕自身に突き刺さっていました。

僕は学生という身分に甘んじて、100%のものをつくろうとしてきました。

そうして自分のなかで納得のいくものを見せることこそが、創作者としてあるべき姿だと思っていました。

けれどもそこには他者、つまり観客がいませんでした。

作品は人に見せるためにつくるものです。なのに僕は、自己満足のために作品をつくっていました。いや正確には完成させていないので、つくっていませんでした。


そして社会に出れば、そうした自己満足の行為は許されません。なぜなら社会人は社会の人間だからです。人のために生きなければならないのです。それが人生であり、青春とは違うところなのだ……そういうことに僕は気付きました。

 

僕は来年から出版社に勤めます。出版は人の思想やエンタメを社会に伝達するメディアです。それゆえこの「100%/10%」の話は、僕にとってとても重要な問題提起として目の前に現れたのです。