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研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

感想『まぼろしの郊外』

 宮台真司の『まぼろしの郊外』(1997年)。僕は2年前に『制服少女たちの選択』(1994年)、昨年に『終わりなき日常を生きろ』(1995年)を読んだが、内容的にはだいたい同じ。だがこの本が一番網羅的かつわかりやすかったと思う。

 

 まず第一部はブルセラ・電話風俗と女子高生の話。青森県の女子高生は東京の女子高生と違い、性を特殊なものではなく一般的なものとして捉えているという話が面白かった。たとえば青森では女子高生も人妻も「イチゴ」が基本だが、東京では女子高生は4,5万円と、相場に大きな開きがある。それは、青森では中学生のねぶた祭の時期に処女喪失みたいな、ムラ的伝統が根付いており、街のおじさんおばさんもそれを理解しているから、女子高生という記号に特権的な地位を与えることがないんだと。


 一方東京では、「良妻賢母」的な近代的共同幻想を「マジで」信仰してしまっているがゆえに、「女子高生=清楚なのにウリをやっている」という禁忌破りの快楽みたいなものにおじさんたちが金を払っているという状況がある。女子高生という記号、有りもしない幻想に金を払っているのだ。また、ムラ的地域共同体が空洞化しているため、地域と女子高生のつながりが不透明化。したがって女子高生サイドとしても、「見ず知らずのおじさんはリスクが高いからイチゴは無理」という動機から、価格の調整が行われているのだった。

 

 あとは電話風俗の歴史として、Q2ツーショットダイヤルとか。Q2ツーショットダイヤルについてはよくわからなかったので調べてみたが、こんなものが昔あったのかと思うと面白かった。そして店舗型風俗の摘発はむしろ逆効果だったといった話がある。

 

 女子高生のお母さんたちは「良妻賢母」幻想を植え付けられた世代。でも「良妻賢母」幻想は、日本が戦後の傷跡を埋めるために間に合わせで作られたパッチにすぎない。80年代になっては、そのパッチはもはや用済みであると。

 

 女子高生がウリをやるのは風俗を運営するおじさんたちがいるからではないから、それを攻撃する「良妻賢母」のおばさんたちの行動には意味がない。ブルセラショップを摘発したり、電話風俗を批判したりすることは、お母さんたちの溜飲を下げ、彼女たちの実存を満たす。しかしそれはまったく本質的な解決には結びつかない。問題なのは、べつに金がほしいわけでもないのにウリをやる彼女たちの動機、すなわち社会的な欠落感の存在なのだ。そしてそれは郊外化が問題の根底にある。

 

 団地は、会社共同体の強化によりつくられたゲットーである。それはさまざまな文化的背景を持った人々が父親の事情で集まり暮らす、新しい都会=ニュータウンだった。アメリカではこうした場所ではパーティーによって新たな共同体を形成するのだが、日本にはそのような社交文化がない。そのため、団地は地域共同体を形成できず、社会的な欠落感がさまざまな形で前景化した。地域共同体がないと何が困るのか。

 

 まず、日本には、学校・家庭・地域の3つの空間があった。学校は偏差値のみで判定される。家庭は血縁によって存在を承認された。地域はムラ社会的な互助会をつくった。だがいま、家庭も地域も、ちゃんと勉強しているかどうかで子供を判定する。「学校化」が起きているのだ。かつては父親が「大学は行かなくてもいいから家業を継げ」的な承認をしていた。また、かつては勉強ができなくともその地域では人望の厚いあんちゃん・ねえちゃんなどがいた。だがもうそういった物差しで人を承認することがなくなった。


 窮屈な「学校化」に耐えられなくなった若者が向かうのが街、すなわち第四空間であると。だから街でウリをやる女子高生を非難するなら、まず郊外化を責めろ。地域共同体がなくなってるのが問題だろと。

 

 それができんのなら、まず女子高生を「良妻賢母」ファンタジーで説得するのをやめろ。「コラ、自分を大切にしなさい」「ありがとうパパ、でも身体は売るね」的な光景がすでに展開済みだからだ。したがって大事なのは除菌ではなく免疫化、すなわち「お前たちのことは俺にはわからん。だから自分の頭で考えて行動しろ」という自己責任の徹底である。大人たちが旧世代の規範意識を強制すれば強制するほど彼女たちの逸脱の快楽指数は上昇する。だから、近代的処女聖性というフィクションを捨て、「清楚であれ」といいながら隣町で女子中学生を買う担任の先生みたいな「ウソ社会」から脱却し、むしろ青森に残ってるような性の普遍化のほうが健全である。

 

 ここらへんまでが第一部。

 

 第二部はインターネットによる人間関係の不透明化や少女漫画の変遷やオウム真理教事件酒鬼薔薇聖斗事件などから地域共同体の空洞化とありもしない共同体幻想にすがり続ける日本の問題――つまり「まぼろしの郊外」について論じている。「まったり革命」についても書いている。近代化という「意味」が消失し「終わりなき日常」が続く時代においては、女子高生がたえずアドホックに人間関係を組み替え続けることに代表される「強度」が必要になってくると。一方、男たちはいまだに「病としての恋愛」、ロマン的な恋愛に固執しており馬鹿丸出しであると。おそらくここらへんの思想がのちのナンパセミナーなどの活動に結実しているんだと思う。

 

 久しぶりに宮台真司を読んで思ったのは、やっぱりすごい頭がいいんだなということ。まえがき的なところで、まず社会調査と文化人類学調査の違いや、フィールドワークの意義について語っている。そういう話から入る本は最近あんまりない(気がする)。また、最近はネットの発展が若者にこういう思想的な態度変更に影響しました的な、「なるほどザ・ワールド」で終わっている本が多い(気がする)なか、この本は社会に生きる我々への問題提起をちゃんとしている(メディアの報道が女子高生の電話風俗参入を促進したとか)。

 

 そしてなんとなく思ったのが、挑発的な文体。巧みな語彙で若干思想書っぽいのだが、ところどころ昭和の雑誌みたいな言葉遣いをしている(まあこういう言葉を使う人は当時たくさんいたんだろうけど)。それがまるで「実は読書家で物知りなんだけど普段はチャラいヤンキー」みたいな感じがして、決してスノッブではない。まあ人によってはウザいインテリにしか見えないのかもしれないけど。ただこれは、宮台真司が意識的にやっているというのは間違いないと思う。ただの優等生キャラでは自分の言葉が世間に届かないというのをわかってる(ただの優等生キャラの筆頭が荻上チキだろう……)。だからあえてキツイ言葉を使っているのだろう、ということが文章だけではなくラジオ番組などでもわかる。そういうのを計算済みであのような文体にしているのだろうなと思うと、尊敬せずにはいられない。

 

 

まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方 (朝日文庫)

まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方 (朝日文庫)