研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

職場の振る舞い方についての「解」

先日、会社の先輩に飲みに連れていかれ、就活の時の話になった。
その時ぼくは結構酔っていたため、ぼくが就活の時にどのようにして頑張っていたかを話した。
ぼくは就活の時、すごい元気よく、すごいリア充みたいに話していた。ぼくは面接の時、ものすごく元気のいい溌剌とした若者だった。
という話をしたら、先輩にこう言われた:「きみのいう『明るく元気のいい』っていうのは、多分普通の人のテンションだよ」

なるほど。それは考えたこともなかったが、そうなのかもしれない。先日の配属決定飲み会の挨拶の時、ぼくは結構声を張ったつもりだったのだが、それでも「もうちょっと声のボリューム上げて」って言われ、いささか衝撃を受けた。ぼくはわりと大きめの声でしゃべっていると思ったからだ。
しかし実態としては、ぼくの声は小さかった。
つまりそういうことなのだ。ぼくは自分はすごくがんばっていると思っている。通常の自分の矮小で自信なさげな殻を突破することに成功していると思っている。
けれどもそれはまったき勘違いなのだ。ぼくはまったく、自分の殻を突破などできていない。ぼくはぼくの思う「リア充」で「明るく」「活発」なやつを演じていただけであって、まったく通常の意味で「リア充」で「明るく」「活発」なやつではなかったのだ。
以上の考察および先の先輩の指摘には大いに蒙を啓かれた。そして自分自身の勘違いぶりに対する果てしない失望を覚えた。
そして同時に安堵も覚えた。なぜなら、ぼくは最初から「リア充」で『明るく」「活発」なやつではなかったということが明らかになったからだ。
ぼくは以前から、面接時のぼくと入社後のぼくとのテンションのギャップが職場の人々、主に面接を担当していただいた方々にたいへんな混乱をもたらしているのではないこと危惧を覚えていた。つまり、面接時はすごくいい感じのやつだったのに入社してみたらすごい暗いやつだということが判明し、面接を担当していただいた方々を落胆させてしまったのではないかという、「詐欺師の罪悪感」めいたものを背負っていたのだ。
けれども飲み会での先輩の指摘は、その罪悪感を取り払ってくれた。なぜなら、その指摘とは「おまえはそもそも暗いコミュ障のオタクだったよ」といった指摘と同値だったからである。
以上の説明により、ぼくが今後ナチュラルにがんばっていけばいいということご証明された。
(なお、この文章はビールを5杯ほど飲んだのちにシームレスに記述されたということをご承知おきされたい(という留保そのものがすでに脳みそオワコン状態であることを如実に物語っている。))