研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

サバルタンは語ることができるか

ポストコロニアリズムフェミニズムの問題についての本「サバルタンは語ることができるか」を読みました。そんなに長くない本なのですが、難解で読みづらい。とはいえそれは文体的な問題であり、慎重に読みさえすれば内容を追うことができると思います。

 

本書は4章から成るのですが、前半の1〜3章は「フーコーがだめでデリダはいける」といった話を延々続けており、興味のある人が読めばいいと思います。大事なのはまさに「サバルタンは語ることができるのか。」という一文からはじまる4章。

 

ヒンドゥー教の一部では、夫を亡くした妻が後追い焼身自殺をするという儀礼がありました。これをサティといいます。サティは19世紀にイギリスがインドを植民地化した際に、イギリス人によって禁止されました。女性の人権を無視した野蛮な儀式だと思われたからです。イギリス人は「われわれは正義を遂行した」と考えました。

 

しかしインドにおいては、サティは女性が勇敢であることを示す尊い行為として捉えられていました。サティを行うことは偉いことだったのです。インドの女性は自らの権利の行使として、進んでサティを行なったともいわれています。

この2つの立場は明確に対立します。つまり、一方ではサティを野蛮な行為だとして批判するイギリスがあり、他方でサティは勇敢な女性の主体的な行為だと称揚するインドがある。この対立をどう捉えるか。捉え方は2つあります。

 

1つは、イギリスの側から解釈するという方法です。つまり、イギリスがインドの人々をいかに抑圧していたかをイギリスの知識人があれこれ考えるということです。たとえば、移民を受け入れて経済を発展させようとするも、自国民の雇用が失われたとわかるやいなや移民受け入れを停止するといった政策が、いかにインドを不当に扱ってきたかということなどを考えるわけです(この問題は現在進行形ですが……)。

 

一見インドファーストな思考のようですがこれには急所があって、それはインドのエリート層しか捉えられていない、ということです。つまり、移民受け入れを開始してイギリスに来るような人というのはインドの中でのエリート層にすぎない。インド内において抑圧された下層の人々は、そもそも移住など考えることすらできない。言いかえれば、そういった下層の人々は、西洋の知識人の思考の範囲外にいるというわけです。

 

では知識人の思考が下層の人々を捉えられていないとしたらどうするか。そこで2つ目の方法として、下層の人々自身に文明の差異について語ってもらうというのがあります。ところがこれも問題があって、そもそも植民地化された国の下層の人というのは、たいてい地元の領主のようなひとによって、あるいは男性優位な社会構造などによって立場的にも知的にも抑圧されています。インドも例外ではなく、下層の人、とりわけ女性(サバルタンとよばれる)がイギリスとインドの文化的差異について比較検討し意見をするなどということはほぼ不可能だったのです。これこそが「サバルタンは語ることができるか」というタイトルの核心なわけです。

 

つまり、サバルタンは①西洋の知識人による代理表象もされず、②自分自身による語りもできないという二重に疎外された存在だったのです。ここからきわめて重大なひとつの事実が導かれます。それは、当事者は自分のことについてうまく語ることができないということです。そんなサバルタンがサティについてどう思っていたのか、本当に自分から進んで後追い焼身自殺をしたのか、それとも違和感を持ちつつも儀礼だから仕方なしと思っていたのか、そこは謎のままになってしまいました。

 

以上が本の内容。以下ぼくの考えたことです。

 

この本の話はわれわれから遠くて全く関係ない世界のことを扱っているようですが、むしろきわめてわれわれに近い世界の話をしているんではないかというのがぼくの見立てです。なぜってそれは、当事者と記者の関係に似ているからですね。「サバルタン/知識人」の関係と「当事者/記者」の関係は著しい平行性を示しています。どういうことか。

 

当事者は自分のことについて語れない。かといって記者が憶測で語るのもいけない。だから記者は何をするかというと、取材をするわけです。そこでは当事者は必ずしも明快に事件について、たとえば福島の現状について、語るとは限らない。けれどもそこで「それって〇〇ということなんじゃないですか?」みたいな聴き方をして、相手の話を促す。そうして当事者も「ああ言われてみれば確かに……」みたいになって話し出す。一種の精神分析的な手続きが、当事者を語りのモードにもっていく。

 

もちろんこれは問題含みです。「それって〇〇ということなんじゃないですか?」という質問は誘導的だし、誘導によって得られた答えを元に記者が想像の世界を構築して記事にするのも危険な行為です。エビデンスを無視しているといってもいい。(これはむしろ記者というよりもゴーストライターの問題といってもいいかもしれません。当事者/記者の中間に、あるいは著者/編集者の中間に挟み込まれる第3項としてのゴーストライター。)

 

けれども、知識人による代理表象も拒否され、本人自身も沈黙するという状況では、いったい何をどうすればいいというのか。そこで記者、あるいはゴーストライター的な存在が憑依し、当事者になりきって語るというのは、沈黙よりはいくらかマシなのではないか。行き過ぎた当事者主義・エビデンス主義は知的な停滞を招くことにしかならないのではないか。サバルタンが語ることができないというのならば、せめて私たちがサバルタンについて語ることぐらいは許されなければならないのだ。