研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

リベラルが金持ちなのには理由がある――「朝日ぎらい」が告げる言ってはいけないリベラルの真実

あるいは、なぜセレブはリベラル化するのか。

 

 

6月に朝日新聞出版から発売された橘玲の「朝日ぎらい」は、「私たち、そんなに嫌われてますか?」というクソダサいキャッチコピーの帯に巻かれて登場した。そんなに朝日ぎらいでもないが強いて朝日が好きというわけでもない僕が見たときの感想は「いや、めっちゃ嫌われてね?」というものだった。僕が高校時代ハム速のヘビー読者だったということを差し引いても、朝日はきらわれているだろう。そんな感覚が一般的かどうかはわからないが、いずれにせよ14年に2つの「吉田問題」を起こした朝日が好かれているとは到底思えない。そのような状況においてこの、主観的評価と客観的評価のずれを訝しむような反語は一部の人を苛立たせるだけだろう。「私たち、そんなに嫌われてますか?(いや、そんなことはない。)」と。まあ、特定の立場以外の人からみても、この文言は残念ながら自己擁護にしか映らないだろう。

 

それはともかく、内容は面白かった。「差別心は教育では矯正できない」「リベラルか保守かは遺伝する」などなど、やばい事実をドライに突きつけていくスタイルは前著「言ってはいけない」と似通っているが、なにせタイトルが「朝日ぎらい」、しかも朝日新聞出版から出ているというのだからなかなかおもしろいことをする。橘玲は「不道徳な経済学」の翻訳で初めて知った(ような気がする)のだが、初めて読んだ彼の著作はもうちょっと政治思想よりのテーマだった気がする。その本で彼は、リバタリアニズムの見地から政府の機能削減について語っていた。それがなんというタイトルだったかは思い出せない。大学1年か2年のとき、大学の図書館で読んだ気がする。

 

で……僕がこの本を読んで思ったことは、解決策が提示されないということだ。もちろん日本における左右の対立を解消することは橘玲の仕事ではない。対立を言語によって可視化すること、概念を整理して構造化することそれ自体は優れて重要な仕事であるし称賛すべきだ。この本の主張は大雑把との指摘を受けることを承知のうえでまとめれば次のようになる;「右派と左派というのはアイデンティティであり、それは啓蒙では直せない。したがってアイデンティティの闘争である左右の対立を解消することはできない」。まあそれはそうなんだが、問題はその先だろう。対立は乗り越えられないとしたうえで、我々はどう生きるか。朝日ぎらいな人がいるということを知ったうえで、朝日シンパの人はどうするか。そこらへんをもうすこし深ぼっても良かったのではないか。

 

さて、橘玲は本の中で安倍政権に対し、リベラルにうまく取り入ることに成功した保守、という評価を下している。つまり、自民党よりも右側に市場(票田)はない。けれども左側を見渡せばそこには広大な沃野が広がっている。であれば、55年体制において存在していた(とされる)党内の多様性も失い純粋保守となった自民党の取るべき戦略は、保守を貫くことではなく、左にウィングを伸ばしていくことである。そして安倍政権はそれをやったから「1強政治」が生まれたのだという。で、僕がいいたいのは、であれば朝日が取るべき戦略はその裏返しで右側にウィングを伸ばすことではないかということだ。といってもべつに右派的な主張をすべきとかそういうことをいいたいのではない。ただ、せっかく「朝日ぎらい」という、むしろネトウヨがおもしろそうなタイトルであるにもかかわらず、帯のこの文言のせいでウヨに対する斥力がマックスになってしまっている、このありさまに僕は違和感をもっているのだ。もうちょっと右派にすりよっても良かったんじゃない? どうせ版元は左翼の牙城だから大丈夫だよ……と思ったのである。

 

タイトルの話。僕が本書を読んで一番ほほおと思った箇所。オーストラリアの実験結果で、リベラルな人は新しもの好きであると。リベラルはこの論文では「支配的性向が低い」と定義されている。それはなんとも疑問であるが、この定義に従えば、リベラルは新しいものが好きで、なおかつ言語能力や数学的能力が高いらしい。へえ。つまりリベラルはそもそも能力が高いんだと。そのおかげで成功し、金持ちになる傾向がある。そこでまっさきに想起するのが不動産王のドナルド・トランプであるが、橘氏によれば彼は「きわめて賢いが、ツイッターを見るとわかるように言語運用能力は高くない」とのこと。このことからわかるのは、リベラルであることは金持ちであることの必要条件ではないということだ(冷静に考えればあたりまえ)。だからこのエントリのタイトルは釣りで、正しくはこうなるだろう;「なぜセレブはリベラル化するのか?」

 

その答えは明示的には書かれていない。ただこの「セレブはリベラルが多い」説を説得づける挿話がある。チャールズ・マレー『階級「断絶」社会アメリカ』の話だ(これに限らず橘氏は大学生のレポートの如く本の引用で議論をドライブしていくというスタイルがある)。マレーの研究によれば富裕層地区以外に住むアメリカ人の政治的志向調査では、純粋リベラルに含まれる人が31%いる。他方4代クラスター(ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコ、ロサンゼルス)に住む人の政治的志向は、64%が純粋リベラルである。リベラルの分布に倍の開きがある。この衝撃的な(橘玲氏による)レポートからは、なぜそのような分断が起きているのかという説明は直接にはされていない。だが全体を読むとヒントを得ることはできる。そのヒントとは「育った環境」だ。ここまでいえばもうほとんどわかるだろう。次に僕が読むべき本は、ピエール・ブルデューの名著「ディスタンクシオン」かもしれない。

大学1,2年生のときに大学図書館で過ごした、あの夏休みの知的興奮が蘇るようだ。

 

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー