研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

コミュ障を抜け出せないのには理由がある

ぼっちコミュ障で学生時代を過ごした人物が社会に出たあとどのような生活を送っているのかということについては学生時代から一定の関心を寄せていました。大方の予想通りぼくは特にぼっちコミュ障を脱した感もなく大学を卒業し、社会人のフェイズへと突入しました。そこでは理不尽な要求をしてくる左遷社員、守旧派中間管理職など、「話が通じない」と感じるひとびとがいましたが、そのようなディスコミュニケーションが生じるたびに僕が感じたのは、「俺はコミュ障なんだな」ということでした。要はコミュニケーションが上手い人であれば、そのような人々との衝突もきっと起きないだろう、潤滑油のようにスルスルと衝突をすり抜けていくのだろう、と思っていたのです。
 
しかし今はこう思うんです、きっとこれは相手が悪い、と。自分のスキルが低いから衝突が起きるのではなく、相手のスキルが低いから衝突が起きるのだ、と。もちろん、相手に合わせられない僕にも、衝突の責任はあります。先程述べたように、コミュニケーションがうまい人であれば、衝突は起きないでしょう。実際、隣の課にいるSさんはたいへん人柄がよく人と話を合わせるのもうまいのですが、彼は僕の大嫌いな、そして会社の大多数の人から嫌われているOさんとも紳士的なやりとりを展開している。
 
けれどもここから、次のような事実を導くのは決して誤謬ではないでしょう;「俺はOさんよりはコミュ力がある」。そう、Oさんはコミュ力が低い。だからあらゆる人と衝突を起こす。けれども僕が衝突を起こすのはOさんを始めとする一部の人とだけです。そこらへんを前提すると、ただちに次の事実が演繹されます;「少なくとも俺はコミュ力において社内最底辺というわけではない」。そもそも取引先との電話のやりとりで不快な思いをさせこちらの上司に連絡がいったとかそういうこともないし(実は逆パターンはあります。T社の窓口の人が非常に高圧的で、上司を通してT社に注意喚起の連絡をしました)、まあ、仕事に必要なことはやっていると思います(それが円滑な仕事のありかたかといえばまったくそんなことはないでしょう、ただ、本当に文字通り「必要最低限」はできているという意味に過ぎません)。しかし社内で最底辺ではない、などという相対的な自己評価で自らを免責してよいのでしょうか。下を見て安心するなともいいます。これで大丈夫なのでしょうか。
 
僕の答えはノーです。これで安心してはいけない。けれども僕には、ここで自己を肯定し、ある種の自己啓発をしたほうがいいのではないか、それが自分のためになるのではないか、という気持ちがあります。最近、自分の仕事場での息苦しさの正体に気づきました。それは失敗体験です。当社には主に2つのセクションがあります。営業と制作です。僕は営業です。仕事上、制作の人に「こういうのどうですか」と企画の提案をすることもあります。営業は数字を見るのが仕事なので、数字を見ての立案&提案です。しかし制作に却下されます。商品のことは制作が一番良く知っているからです。「そんな売り伸ばし案はだめ」ということです。
 
もちろんなにからなにまで否決されるわけではありません。「いいっすね! それ」と後押しされることもあります。実際、今日も一つ、ある企画が制作の人に認められ、実行しました。しかし他方、「こんなもん送ってくんじゃねえよ」「評論家みたいに言われても困るんですが。」など怒られたこともあります。つらいです。昨日など、1ヶ月前に「いいね!」と言われていた企画について「それよりもやるべきことがあるんじゃないかなあ」と遠まわしに言われました。今更。ちょっとまってよ。あなた以前前向きだったじゃないの、その企画に。 正直、制作の人とはあまり話したくありません。
 
このような失敗体験が積み重なり、「もうこのような失敗はしたくない」と自らに鎖をかけていくため、どんどん息苦しくなっているのです。しかし話さなければならないのです。仕事なので。この「話さなければならない(いやだけど)」→「話そう(いやだけど)」という、小さいけれど僕にとっては大きな決断が幾度も繰り返されることで、ストレスが堆積していく、そのような不健康な反復がたえず行われているのがいまの僕の就業環境です。対話の試行回数は増えるのですが、試行回数が増えても「失敗」の確率は下がりません。だからどんどん嫌になっていくのです。
 
ここで当然、「試行回数を増やしても同じ数だけ失敗し続けるのは、あなたがなにも学んでいないからだ」という指摘が入ることは自明でしょう。それに対しての僕の答えというか、仮設は以下の通りです;「僕はまだ何かを学べていない」。じゃあ学べよという話になるのですが、学ぶとはなんだ? コミュニケーションの仕方を学ぶ。それは大方の考え通り、ひたすらコミュニケーションを通じることでしかなしえないことなのです。つまりコミュニケーションを学ぶということは、コミュニケーションをし続けることである。しかし僕はコミュニケーションをするには、あまりにも失敗体験が多いように思います。だから前に進めないのです。
 
きっといいわけだとのそしりを受けることでしょう。知っています。自分でもそう思います。「コミュニケーションが下手」←知ってる、「下手だから直す必要がある」←知ってる、「コミュニケーションがうまくなるにはコミュニケーションを続けるしかない」←知ってるけどそれをする体力がない。甘えんな、という話でしょう。それもわかります。だから僕はダメなんです。はあ。くっそ。
 
と、このように、自らのコミュニケーション力の欠如について思考すると、結局くだらない自己憐憫を積み重ねるという結果に帰着してしまうんです、必ず。では、この不健全なループを抜け出すにはどうするか。それについて思考する必要がある。しかし一直線に結論に向かうことはできない。そんなに簡単にゴールへ向かうことができているのであれば、こんな寒々しい内省を繰り返す必要もない。僕たちの前に立ちはだかるコミュ障の壁はそんなにもろいものではない。これまでなんどもステゴロで立ち向かっては怪我をして撤退し続けてきた。だからこの壁を壊すには武器が必要だ。そしてその武器はおそらく、前ではなく後ろ、僕たちの過去に隠されている。そこで次章では、コミュ障とはどこからきたのかを考えていきたい。