研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

エンドレスエイトを見るギャルゲープレイヤー

ニコニコと角川が合併した記念に角川作品一挙ニコ生放送というのをやっていて、その中にハルヒの一挙放送もあったのでタイムシフトを見ました。僕は一期はDVDですべて見たのですが二期はエンドレスエイト3週目終了後にリアルタイムの視聴を打ち切り、以降見ることはなかったのでした。というわけでエンドレスエイトはぶっちゃけシーク飛ばして最後の周回だけ見ていても良かったんですが、一応最初から8回全部見ました。ぶっちゃけ冗長でしたね。

 

ただ三週目のキョン長門に声をかけたときの長門のぽややんとした気だるげな表情はとても良かったですね。希少価値があるという意味でも際限ないループによる疲労感の隠喩としても。ループを自覚していながら観測しか許されない長門のやるせなさを視聴者に強制同期させるというアクロバティックな構造は、僕はけっこう評価しています(ここらへん東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』所収『萌えの手前、不能性に止まること――『AIR』について』のパクリ)。8回やったのも悪くない。自分の想像と世界を容易く短絡させてしまう自分勝手な神(ハルヒ)に翻弄されるしか無いキャラクター達は、フィクショナルなようでいて実はリアルな人生を描いています。翻弄されるしか無いはずのキャラクター(=私たち)は、実は自分の決断によって世界を変えることができる……と考えると、意外と肯定的な作品として読むことができます。これは原作ではなかなか感じ取れないニュアンスでした。

 

またメタ的な見方をすればこのエンドレスエイトを見る、あるいは「見させられている」私たちは、自己をギャルゲーのプレイヤーとして再帰的に捉えることができます。長門が周回ごとにどんなお面を買うのかをチェックするために視聴を継続するという行為は、CG回収のために選択肢直前のセーブポイントをロードするという行為にそのまま転写できます。だからやっぱりこのストーリーを8回愚直に見るのはファンディスク的なのかもしれませんね。


さて、雑多な感想をあげるとすると、エンドレスエイトがエンドレスになっていくにつれて声優さんが演技に「遊び」を入れようとしているのが分かって面白かったですね。あとは8月30日の喫茶店でキョンハルヒを引きとめようとするところで「いっけええええ」というコメントが一斉に流れていたのは一体感を感じましたね。僕もリアタイで見ていた時はそういう風に思っていたような気がします。当時は2ちゃんまとめとか見てなかったんですがかなり熱狂してたんだろうなと想像がつきます。また、天体観測のシーンで古泉がキョンにある提案をするシーン、その直後の「僕がやりましょうか?」に対するキョンの表情が隠される(8回全部)という演出はなかなかいなと思いました。ちなみに原作ではこういうふうに描写されています。「このとき俺がどんな顔をしていたのか、自分では見るすべがなかった。鏡の持ち合わせがなかったからな。だが、古泉には見えたようで、」(『涼宮ハルヒの暴走』p.69)しかしアニメでは古泉がキョンの顔を見ていないパターンもありました。だからなんだって感じですけど。


ところで僕のEvernoteには2012年にエンドレスエイトを再読した時の感想が記録されていて、そこには「一番気になった表現は、168ページ「そういうときだけハルヒの笑顔には邪念の欠片もなく、年齢よりも幼い感じがして俺はひょいと目を逸らした。見つめていたら俺な変なことを考えてしまいそうであったからだが、まあ、その変なことなんてのが何かは俺にも解らない。」」と書いてあるのですが、168ページにそんな文章は存在しないんですよね。さらに言えば168ページはエンドレスエイトではなく射手座の日なんですよね。いったい2012年の僕、つまり高校3年生の僕はどうしたのか、単なるタイプミスなのか、あるいは時空侵犯者によるデータ改変なのか……。『涼宮ハルヒの暴走』にはエンドレスエイト以外の短編も収められているのでいちおう全部読んで確かめたいと思います。