研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

なぜ人は「ありえたかもしれない人生」について考えてしまうのか

友人に貸していた『ゲーム的リアリズムの誕生』が返却されたのでぱらぱら読み返したのですが、いろいろ考えたことがあるので草稿的に素描しておきます。

 

・高校の時の別の高校に入っていたら……という仮定法過去
高校2年生の4月頃、部活でいろいろ大変な目にあった。そこで僕は、「もし別の高校に入学していれば……」と考えた。もし別の高校に入っていれば、楽しい仲間たちやかわいい彼女と爽やかな青春を過ごしていたのではないかと。
とはいえいまのこの高校は第1志望の学校であり、これ以外の高校に入学した自分の人生を想像するということはすなわち、高校受験に失敗していたときの人生を想像することを意味する。それはちょっと想像したくない。受験は失敗したけども楽しい仲間たちやかわいい彼女と爽やかな青春を過ごす人生はちょっと嫌だ。それで僕は、まあそんなこと考えても仕方がないのでいまの高校を選んだことを肯定しよう、ということになったのだった。

 

・大学でも同じことを考える
大学も、まあ思っていたよりはパッとしなかった。それで「もし他の大学に入っていたら」と考えた。そういえば高3の時、「早稲田狙ってもいいんじゃない?」と担任の先生に言われたことがあった。もし早稲田に入っていたら?
……もちろんさまざまな想像を巡らせることはできる。けれどももし早稲田に入っていたら、明治大学で出会ったさまざまな友人、ゼミの先生との交流などはなかったことになってしまう。それでいいのか。
「早稲田に入っていたときの人生」の詳細なレポートが手に入れば、いま現在の「この僕」の人生と比較検討し、どちらが良かったかを審判することはできる。けれどもそのようなレポートは存在しない。したがってさしあたりこの件に関しては判断停止するしかない……のか?
いや。比較検討できるかどうかは関係ない。レポートなんてあってもなくても僕の主張は変わらない。「この僕」の人生はさまざまな偶然の糸が絡み合ってできた奇跡のシナリオだ。それは肯定しなくてはならない。なぜなら、無数に存在する平行世界のうち、たったひとりの「この僕」だけがこの世界を享受できるのだから。

 

・つまり、何がいいたいか
人は何か一つ、嫌なことがあると、「もっといい人生があったのではないか」「どこにトゥルールートへのフラグがあったんだろう」と想像してしまう。
その一方で、「これよりいい人生は考えられない」「トゥルールートに来た」と思うことはあまりない。あるといえばある。例えば恋愛。ブリーチの井上織姫は次のように言っている。


「あ~あ 人生が5回くらいあったらいいのになあ!
そしたらあたし、5回とも違う街で生まれて
5回とも違うものをお腹いっぱい食べて、5回とも違う仕事して…
それで5回とも…同じ人を好きになる。」

 

これは一見、熱烈な恋心を抱く少女のポエムでしかないようだが、これまでの議論を踏まえると、より深い読解をすることができる。

このセリフにおける「人生が5回ぐらいあったら」は、単なる想像でしかない。したがって、「5回とも違う街で生まれて(中略)5回とも…同じ人を好きになる。」というのは、織姫の過剰な錯覚に過ぎない。実際には、違う人を好きになる世界が存在する可能性を否定できない。「同じ人」、すなわちブリーチの主人公である黒崎一護を好きになる世界は、織姫にとっての「この世界」でしかない可能性は十分にある。つまり、織姫が一護を好きになることは、織姫にとっての無数の平行世界における「部分最適」に過ぎず、ほかに素晴らしい魅力的な男性を好きになる「全体最適」があるのかもしれない。
しかし織姫は、「5回とも…同じ人を好きになる。」のは、無数の平行世界の全てにおける前提であるかのように感じている。つまり、一護を好きになるという「部分最適」を全ての平行世界に適用し、それが「全体最適」であるかのように解釈するのである。簡単に言ってしまえば、「運命の相手」であるというように考えるのである。
このように、「これよりいい人生は考えられない」「トゥルールートに来た」と思う瞬間というのは、ある。
しかし繰り返すが、これは錯覚に過ぎない。どんなに幸せであっても、「もっといい人生があったのではないか」「どこにトゥルールートへのフラグがあったんだろう」という仮定法過去は成立する。
その仮定法過去は永遠につづく。だが、それを乗り越えるための、解釈の操縦を挟み込む余地はある。
部分最適全体最適と錯覚してしまうこと。織姫はその錯覚に無自覚ではあったが、錯覚に自覚的でありながらも、「これで良かったのだ」と考える事。自分は無数の並列的な世界の一つにすぎないという前提を知った上で、自分がいる「この世界」を肯定すること。それは言い換えれば、自分がある選択を行ったという事実を認めることである。かつての自分の選択を肯定することではない。あの時の自分は間違ってなかった、と思い込むことではない。自分がこの選択をしたという事実、そしてその選択によりいまの自分がいるというこの事実を受け止めること、それこそが大事なことなのではないか。

 

Appendix;なぜ「仮定法過去」を無限に繰り返してしまうのか
インターネットによる無限の情報のアーカイブ化、そして訪れる「認知限界」
→「この自分は知らないけど、実は『この世界』の裏側には自分にとって最適な情報、モノ、人が隠れているのではないか?」という疑い

ex)全体最適を探す迷宮に入る感覚としては、エロ動画サイトを巡回し、今の自分に最適な動画を探すという行為が分かりやすい。この動画で十分なのに、さらなる"高み"を目指してしまう……
 →膨大な情報の整理(検索、マッチング、レコメンド、仲介業者)、複雑性の縮減(イデオロギー、物語)の必要性


四畳半神話大系について
ここまで読んで、もしかしたら「四畳半神話大系」を想起した人もいるかもしれない。僕はこの作品について考えたい。原作とアニメ版、細かい違いがあるものの、最終話のテーマは変わらない。それは「つまらんと思ってた人生も楽しかったはずではないか」というものだ。……

 

途切れ途切れですが、いつかちゃんとした形にしたいと思います。