研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

【就活体験談】面接は「演技力の測定」と定義せよ

面接の時、人生で最も根拠なき自信がみなぎっていた。面接の直前にはカラオケで喉を開き、入念な自己啓発ののちに御社に向かっていた。その準備が功を奏し、僕は明るくにこやかにハキハキとしゃべることが可能であった。僕は面接官からリア充だと思われていた。「人当たりよさそうですけど、ご友人は多い方ですか?」と聞かれたことがあった。僕は「本当に付き合いの深い友人は1人ですね。もちろん定期的に遊んだりご飯を食べたりするひとは何人かいますが」と答えた。


今思えば噴飯ものである。僕はただのインターネット・キモ・オタクに過ぎない。コミュ障で、友達も全然いない。「付き合いの深い友人は1人」というのは、高校時代の友人で今も会っているのが1人しかいないという単純な理由にもとづいている。なお、「定期的に遊んだりご飯を食べたりするひと」は特にいない。まあいるといえばいるが、それはサークルの定期飲み会という名のシステムの要請による人間関係に過ぎず、僕の方から主体的に誘うことで構築されるものではない。


さて、かように自己啓発済みの僕であったが、運よく内定が出た。その時に感じたのが、つぎのようなものである。 

 

(俺を採用させてしまって申し訳ない。なぜなら面接の時の俺は本当の俺ではないからだ。俺は本当の俺を偽っていた。大いに偽っていた。それはもう、詐欺といっていいレベルで偽っていた。俺はあんなに明るくないしにこやかでないしハキハキとしゃべらない。本当の俺は人とのコミュニケーションを避け、遠巻きに人の話を聞き、話を振られたら短く返答し愛想笑いで間を持たせる残念な人間である。その本性は遅かれ早かれ御社のもとで明るみに出るだろう。面接の時に貼り付けていた金のメッキは、徐々に剥がれていくだろう。メッキが剥がれ、剥き出しの俺を見た時に御社の人たちはどう思うか。幻滅するだろうか。するだろう。それは申し訳ない。しかし俺はそういう人間なのだ。とはいえ申し訳ない)

 

そして大変残念なことに、このメッキはすでに剥がれ落ちはじめている。内定後からこれまでにもう数回、会社見学や懇親会などで御社に行っている。そこで会社の方と話すのだが、肩の力が抜けてしまっている。つまり、本当の俺の姿がばれ始めている。会社の人はどう思っているだろうか。

 

では、どうすればいいか
この心苦しさや申し訳なさを克服するにはどうするか。それには解釈が必要になる。それは面接というシステムの解釈である。


面接はもともと人の本性など見抜けない。面接でどんな質問がされるかは大体学生には想定されており、用意された回答を聞くだけで終わることも多い。では面接は何を見抜くか。それは仕事をやらなければならない時にしっかりと準備し、適切にプレゼンすることができるかどうかではないか。つまり、やらなければならない時にやれるかどうかである。早い話が、付け焼き刃能力といってもいい。


ここで注意しておくべきことは、そのプレゼンをしている本人の普段の姿がどうかは評価に関係ないということだ。つまり大事なのは面接の場で頑張れるかどうか、適切な準備をできているかどうかだけであり、普段コミュ障なのか引きこもりなのかということは何も関係ないのである。

 

というと僕の拡大解釈だと思うかもしれない。確かに面接は学生の普段の姿を見抜くために行うとしばしば言われる。もちろんそういった視点も重要だろう。けれども面接というシステムそのものは、学生の普段の姿を評価するのには適していない。普段の姿を見たいのであれば、むしろ面接などせず、授業成績で評価すべきである。しかし現状の採用活動では、面接を行う。したがって本人の普段の姿は評価に関係ないという主張は僕の拡大解釈ではない。ということは、やはり前述のように「やる時にやれるかどうか」が一番重要であるということではないか。以上の議論は、あえて挑発的な言葉を選べば、つぎのように要約されるだろう。すなわち、

 

「面接では演技のプロが勝つ」

 

 

面接ではウソをつけ (星海社新書)

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