研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

仕事の話をさせてください

申し訳なさで気が狂いそうだ。22時ごろ、僕は取引先にエクセルのデータを送ってすみやかに退社した。清々しい気持ちでタバコを吸い、電車に乗り、駅を降り、一杯引っ掛けて帰ろうかと思った。このデータを作って送るという作業は結構大変なのだ。しかし先ほど23時34分、CCに僕が入ったメールが届いた。「先ほどのデータに誤りがありました。明朝修正版をお送りいたしますので、大変お手数ですが先ほどのデータは破棄していただけますと幸いです。この度は申し訳ありません。」。そのメールは先輩が送っていた。すぐに会社に電話をかけた。ワンコールで先輩が出た。……

映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」で、登場人物がこういう話をする。私は人の優しさが怖い。見返りを求めない優しさが怖い。人の優しさには何かの対価を払いたい。コンビニの店員さんは、お金を払うからサービスをしてくれる。でも人は、お金を払ってるわけでもないのにサービスをしてくれたりする。それが怖い。……

電話に出た先輩にどこが間違っていたのかを聞いた。ここがこうなっていた。それからここがこうなっていた。こうなっていると、ああなってしまう。そうなると大変。そうなるとああなってしまうから。

まず僕が考えたのは、明日会社に早く行こうということだ。始業時間までにデータを修正しなければならない。まあそれは早起きして会社に行ってデータを精査すればいいだけの話だ。しかし問題はその先にある。始業時間になり、先輩が出社されたとき、僕はどうするか。どんな顔をして何を言えばいいのか。つぎに僕が考えたのは、「謝罪 方法」で検索することだった。……

学生の頃、先輩という存在およびその概念は、単に自分より早く産まれたという理由のみによって敬意を払わねばならない存在として理解していた。そしてそれは辞書的には正しかった。けれども社会に出て気づいたのは、自分より早く産まれ自分より早くその世界にいるということそのものが、途方もない違いをつくりだしているということだった。

シンプルな事実として、心から反省するということと、反省しているというポーズをとることは、本質的に異なっている。前者は未来を変えねばという意志を生じるが、後者は生じない。

そして大変なことに僕はいま、ビールを飲みながらこの文章を書いている。焼き鳥をつまみながら。実はここまでの倍の文章を書いたにも関わらず手元が狂って文章を削除してしまい記憶を頼りに同じ文章を書いているぐらい、酔っている。……

告白させてほしい。僕は先輩に追いつける気がしない。先輩は2年目であり、僕の一個上のーー”たかが”一個上のーー先輩である。けれども僕は先輩に追いつける気がしない。一年後、先輩みたいになれる気がしない。先輩がいなくなった穴を僕が埋められる気がしない。という話をこないだ飲み会でしたら、先輩は大丈夫だよと言いましたね。でも僕は、本当に、本当に不安なんです。

僕が今いる部署は、新卒が最初に配属する部署として知られている。新卒は2年間、この部署にいる。そして2年後、それぞれの場所に飛ばされる。そういう会社なんだ。……

ブログに懺悔するということ、紙に懺悔するということ、それは誰かに自らの罪を告白し、許しを乞うということだ。許しを乞うべきは紙ではなく迷惑をかけた相手、先輩だというのにも関わらず、しかも許しを得たところで僕が先輩に迷惑をかけたという事実は歴史から決して消えないにも関わらず!

ここで私たちは不可避的に誤変換について考えてしまう。紙ではなく神だろうと。しかしこの誤変換が私たちの深層意識に宿る無意志をクリアに暴いてくれる。……

いったい僕ははどうすればいいんだ。こういう問いかけそのものが許しを乞う行為であり、甘えであり、学生気分の抜けていないことの証であるという批判を先回りして自分に加えておきたい。そしてその先回り批判そのものが「自己批判という安全に痛いポーズを取りつつの甘え」を形成しているという批判に対しては……
もうだめだ。
しかしそれでも生きる。