研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

大切な時間を捧げるに値するほど素晴らしいもの

あけましておめでとうございます。

だなんて、今更遅きに逸していてむしろ失礼なようにも思うけど、虚礼は虚礼、タイミングなんて気にする必要なし。

今年の仕事始めは5日金曜日で、すでに出社したのだが、この三連休があったためいまだ正月休み気分のままだ。明日の出社が嫌でたまらない。

前々から精神安定のためなにか文章を書こう書こうと思っていた。しかし脳内でテーマを練っているうちに2017年が終わってしまった。じつは2017年を映画を通じて振り返るというエントリをさわりだけ書いてはいたのだが、なぜか筆が乗らず放棄してしまった。

 

まあとりあえず何も考えず書いてみよう。

 

さっき逆転裁判6をやっていた。スマホ版。逆転裁判は高校生の時からやっていて好きなゲームなのだが、検事やら大逆転裁判やらはやっていなかった。アプリで出ているということで久しぶりにやった。2章までクリアしたのだが、あまりのクオリティの高さに涙を流してしまった。

いや、感動のストーリーというわけではないんだ。もちろんすばらしく練られたプロットだと思うが、それ自体が感動させるんじゃない。逆転裁判のもつ形式美がずっと続いていることに感動したのだ。たとえば証人が追い詰められて証言を変更した時に尋問BGMがテンポアップすることや、裁判の後に無罪になった被告人を慰めるために最後の証拠品を突きつけることなど。2章はプレイ中から「この証拠品の手帳、たぶん裁判終わった後にみぬきちゃんに突きつけるんだろうな……」と予想していたら本当にそうだったのだが、そこに至る演出が完璧だったので感動してしまった。

3章もほんの少しだけ見たのだが、大人になった真宵ちゃんが出てきて本当によかった。生きててよかった。人生ってこういう風になるんだなあと思った。人って歳をとるとこういう喜びがあるんだな。(いや大げさか。これはゲームの話だ。なんで虚構の世界の話をリアルの話に結びつけて……いや、でもリアルの世界の喜びや悲しみをフィクションを使って表現するのはそんなに変なことではない。むしろそれこそがフィクションの力のはずだ……)

 

ところで昔から僕が悩んでいることとして、読みたい本、プレイしたいゲーム、見たい映画などなどが多すぎて追いつかないということがある。まあ普遍的な悩みだと思う。消化の時間がないよと。

僕は本を読むスピードは人並みだし、平均必要睡眠時間が7時間半なので、あんまりたくさん本を読む時間がない。けれども読みたい本はたくさんある。こうなると、本を読むのが早い人や、寝なくても大丈夫なショートスリーパーの人と比べると、僕はあんまり本を読むことができない。

それは悔しい。僕の人生は限られている。なのに、一冊一冊の本にいちいち時間をとられるのは困る。僕はもっと効率よくたくさん本を読んで教養を身に付けたいのに、それがいつまでたっても達成できないもどかしさがある。

みたいな話を先輩にした。先輩は「何言ってんだこいつ」みたいな表情を一瞬浮かべたのち、次のように言った。

「もちろん人生の貴重な時間を一冊に奪われるのは嫌かもしれない。でも、その貴重な時間を捧げるに値するほど素晴らしい本に出会って、その本に人生の貴重な時間を捧げてしまうということこそ、素晴らしいことだと思うんだ」

 

これを言われたのは2017年の最後の方の飲みの席でのことだった。

僕はここ最近、映画を1.5倍速で効率よく消化しまくっていた。そのことは否定はしない。スターウォーズ一気見とか、1.5倍速じゃないと心が折れていただろう。

でも一昨日、先輩の言葉を思い出して、1.5倍速で見るのをやめることにした。等速で見ることにした。そのことによってただちになにかが変わったということはない。急に映画が味わい深くなったとかいうこともない。そもそも味わい深さとかを検証するには同じ作品を記憶を消して2回見るとかしないといけないが原理的にそんなのは無理だ。なので等速で見ることに何の意味があるのか、よくわからない。

しかし僕はさっき、逆転裁判をやって涙を流した。この経験が、遠い昔、中高ぐらいのころ、膨大な時間をゲームや映画や読書に捧げて得た「感動」という原初の記憶を少し響かせた。ような気がした。

 

僕は2017年に「本は飛ばし読みでいいのではないか」というエントリを書いた。

http://liefez.hatenablog.com/entry/2017/06/18/022310

2018年一発目のこのエントリは、上のエントリに対する僕なりの回答としたい。