研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

人と話すことができない

自分の話をしなくなってしまったのはいつからだろう?

高校時代、間隔が空くことはあれ、よく日記を書いていた。そこでは教室で起きた人間関係の変化やそれについて僕が思ったことがシャーペンで乱雑に書き殴られていた。また、部活で起きた事件(それも人間関係のことだ)についても不自然なほど詳細に書かれていた。腹立たしいことは荒々しい筆跡で、悲しいことはペンの先を流したような筆跡で書かれていた。当時の僕は執拗なまでに自分のことをノートに遺していた。それは恐らく、未来の自分に向けて今の自分をそのまま伝えるためだったのだと思う。今の自分はこんな情けない人間だが、いつかこの情けない自分を笑い飛ばす事ができるぐらいに立派な人間に成長するだろうと、そのような願いを込めて。

大学に入り、紙の日記はほとんど書かなくなってしまった。ツイッターも、リアルの知り合いがフォロワーに増えてからは角の取れたつぶやきしかしなくなった。それでもサークルでは自分の書いた小説を発表し、友達から褒められたりして、自己表現欲求を満たしていた。僕は文章を書くことに自信をもっていた。話下手なのは昔からそうだが、文章を書くことで人に認められることができた。それで自信をもっていたので、控えめではあるが人とそれなりのコミュニケーションを取ったりしていた。自分は人と仲良くなるのが得意ではないと自覚はしていたが、コミュニケーションが絶望的に下手だとは思っていなかった。自分から話しかけることで少しでも人と距離が縮まる(ように感じる)のは悪い気分ではなかった。

それすらできなくなったのはいつのことだろう。ある時、あることを境に、僕はそのようなコミュニケーションの場から急速に遠ざかってしまった。それまで仲の良かった友達ともあまり話さなくなった。ほとんど一方的に、話しかけられたら答えるだけの人間になっていたのだ。周りの人からしたら、たとえば何か重大な秘密が漏洩することを恐れていて過剰に防衛的なスタイルを堅持している、奇妙な人間に見えるだろう。一言で言えば、「何を考えているのか分からない」ということだ。

何が原因なのかは実は見当がついている。それについてここで述べることはしない。だが、僕は、その出来事――仮にXとしよう――が、今ここまで僕に重くのしかかっているということに恐れを抱いている。僕にとってXとは大変重たい出来事だった。それは間違いない。けれどもそれが響かせる耳鳴りとはもう1年ぐらい前に決別したつもりだった。ところがそれは意外にも、社会人となりまったく環境が変わった今になっても、僕に見えない負荷を掛け続けているのだった。僕はXといつまで付き合い続ければいいのか。