研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

正直ハロウィンで騒げるような陽キャになってみたかった。

あのハロウィン以来、ずっと何か実存的なもやもやを抱えている。それは少し昔の言葉で言えば「非モテ」の感情だと思われる。

 

リア充」「非リア」の用語が爆誕し、インターネットに耽溺する自分たちとその他を積極的に区別しはじめたゼロ年代初頭、それはまだアイロニカルな嘲笑に満ちた自虐ネタの域にとどまっていた。「革命的非モテ同盟」に端を発する「クリスマス粉砕デモ」等、リア充への嫉妬(あるいはモテ、非モテの区別による階級意識そのものを消去する超然主義)は、こんにちにも2ちゃんねるを中心に細々と受け継がれている。それだけでなく、いまやアメリカにも「インセル」という「非モテ」に相当する概念が発生し、社会問題している*1

 

もちろんこれをネタ認定することは彼ら非モテ当事者にとって不愉快な指摘となるかもしれない。モテ・非モテの階級を転覆し、メディア主導型のクリスマス資本主義を粉砕し革命を起こすという高邁な思想を本当に実行している人もいただろう。けれどもそれは具体的な攻撃行為、たとえば1972年あさま山荘事件のようなものまでは発展したなかった。非モテは長いモラトリアムを生きていた。ネタとしての非モテ。ベタな非モテとは違うし、非モテを分析して批判するメタな非モテでもない、ネタとしての非モテを生きていた。

 

それが同床異夢であることが発覚したのが2008年、秋葉原連続殺傷事件だった。加藤智大は非モテをネタにしていた。たとえば掲示板で、自らの容姿をたえず否定的に罵り、「モテない」と自虐する、陰湿な「ログ」が各種メディアでも報道された。けれども加藤は本当に非モテをネタにできたかと言えば、そうではない。加藤はネタ化に失敗した。自らをあえて劣位に置くということそれ自体をコンテンツにすることができなかった。だから自壊した。彼は自らの体力を削りながらネタ化に奔走していた。ことほどさようにネタ化とはある種の危険性をはらむ行為である。


しかし真に注目すべきは、加藤はじつはそこまでどうしようもない「非モテ」というわけではなかった、という事実である。女性と交際した過去も追加ルポにより明らかになっているし、まったく女性と接点がなかったわけでもないだろう。またゼロ年代は「ニート」という単語が世間に認知され、社会問題化した時代でもあったが、加藤は(人間関係などさまざまな問題を抱えてはいたものの)会社で働き自活していた。

 

けれども繰り返すが、加藤はネットで、自分がいかに「ダメ」であるか、「非モテ」であるかを執拗に語ってきた。筆者はここに、何かの「すり替え」が行われていると考えている。何かしらの危機ーー仮にXと呼ぶーーが、「非モテ」とすり替えられている、と。つまり加藤は本当は危機Xに瀕しているのにもかかわらず、それを「非モテ」の問題と錯覚してしまったのだ。では、Xとはなにか。

 


僕は、渋谷のハロウィンにおける居心地の悪さは、じつはX的な何かに起因しているのではないかと考えている*2

 

X的ななにか。この概念に名前をつけるのは難しいが、あえて言えば、「選択できなかった人生を見せつけられた悔しさ」というものにでもなると思う。選択しなかったルートというのは、想像することができる。あの時あの選択肢を選んでいたら、というのは人間の典型的な思考だ。けれども選ぶことさえ許されなかったルート、選択肢さえ与えられなかったルートというのは、もはや我々の想像力を超えたところにある。

 

僕にとってハロウィンの陽キャラというのはそういうところにある。それはいわゆる「青春コンプレックス」、高校時代にもっと恋愛したかった、みたいなのとも違う。それは自分を取り巻く環境が違ったら、という仮定の話だ。けれども表題の件、「正直ハロウィンで騒げるような陽キャになってみたかった」というのは、そもそもの所与の条件に関する仮定だ。それは過去の選択に対する疑問というレベルを超えている。だからそれは我々の想像力を超えている。


こうした我々の想像力を超えた出来事に対して、僕たちはどう向き合うか。ここから先はアイデアスケッチになるが、4つの立場が考えられると思う。

 

非モテアイデンティティ化し、モテを批判する。

②モテと非モテの対立を消去する超然主義。これは「自分恋愛に興味ありません(本当は興味あるけど)」的な「酸っぱいブドウ」的立場も含む。

非モテアイデンティティ化するが、攻撃性を自分に向ける。「僕はほんとだめなやつなんです……」と自己憐憫に耽溺する。ポエム派。

非モテを脱却し、モテへと進歩する。

 

以上がひとまず考えられる4つの立場だが、いずれもまず基本的な問題設定が誤っていることを確認したい。先ほど筆者が指摘した通り、モテ・非モテにまつわる問題は、じつは危機"X"をモテ・非モテの問題と錯覚している可能性がある。その場合、「我々の想像力を超えた出来事」に向かい合うための処方箋は、モテ・非モテに関する解釈枠組み内では開発することができない。だからこそ5つ目の立場が必要なのだ。そしてそれこそが、渋谷のハロウィンにおける居心地の悪さ、危機"X"、「我々の想像力を超えた出来事」をコントロールするための武器になるのだろう。

*1:インセルの社会問題化というのは、日本における非モテとはまた違った文脈で起きている。たとえばインセルはネット上の発言だけでなく、実際の行動でその劣等感を発露している。→凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56258

*2:ただ注意しなくてはならないのだが、僕は事実として「非モテ」である。ゆえに僕が"X"を「非モテ」と混同しているかどうか、まずそれを疑う必要がある。検証のためには次の実験をすればよい;①僕が非モテからモテになる②それでも渋谷のハロウィンに居心地の悪さを感じ続けているかどうか。感じ続けていれば問題の原因は「非モテ」ではなく"X"にあることになる