研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

やる気はないけど、「やる気を持ちたい」とは思う。でもやる気があってもやりたいことはない。

やる気がある人は輝いているように見える。たとえば若い起業家。僕たちはなんとなく、若くして起業している人は熱意に満ちていて夢があって希望があってバイタリティがあって素敵な人生を送っているように見える。そしてそういう人とくらべ、自分はなんてやる気がないのだろう、夢もないしやりたいこともないし……と落ち込む。会社のなかでも似たようなことがあるだろう。たとえば一つ上の先輩。いつも遅くまで残って、新しい企画を考えたりしている。会議では積極的に発言し、つねに周りを見て有益な情報をもたらす。なんでそんなやる気があるんだ、と思ってしまう。そういう人とくらべ、自分はなんてやる気がないのだろう、この仕事に情熱もないしやりたい企画もないし……と落ち込む。要は「やる気がない」ことに悩んでいるのだ。

 

悩んでいるというからには、当然僕たちはやる気がない状態を好ましく思っていない。やる気がある人とない人では、やる気がある人のほうが生きるのが楽というか都合がいいというか、楽しいはずだ。でも僕たちはやる気がない。「やる気を持ちたい」とは思っている。でもそもそもやる気がない。やる気がほしい。というか、やりたいことがない。やる気がある人はみな、やりたいことをもっている。だからそれに向かってひたむきにがんばっている。でも僕たちにはそもそもやりたいことすらない。やりたいことがない、というコンプレックス、無欲コンプレックスを抱えている。それが今の僕たちの置かれている現状だ。僕たちにはやりたいことがく、それゆえつらい。

 

やりたいこと。しかしながらそれは、僕たちだけでなく、多くの人が持っていないものであるようにも思う。例えばさきほど起業家の例を挙げたが、起業家だって本当に何がしたいのか、よくわからない。ある大手IT起業の社長は「21世紀を代表する会社をつくる」という目標があることで有名だが、それにしたって21世紀を代表する会社をつくって、そのうえで何をしたいのかがわからない。21世紀を代表する会社をつくって、それでどうするのか。たんに金、地位、名声がほしいのか。それならそれでいいのだが、それは目標というよりもむしろ手段と呼ぶべきものである。金、地位、名声は本来、何かを達成するために必要とされるべきものであり、それ自体が目的と化すべきではない。しかしいま、世の中の多くはこの起業家のような目的と手段を取り違えた思考に埋没しているように思われる。

 

それを示すのが、出版界におけるビジネス書、自己啓発書の氾濫だ。その類の本を1冊も読んだことがない、という人は今時珍しいだろう。書店の入口付近、話題書コーナーには必ずその手の本が積まれている。こうした本は、いろいろ種類はあるものの、ある一定のコードに基づいてつくられている。それは、「仕事や人生をがんばろうと思っている人の役に立つ」というコードだ。何を当たり前のことを、と思うかもしれない。確かにこれは当たり前のことを言っているにすぎない。しかし筆者が真に伝えたいのは、そしてその危険性を指摘したいのは、そのコードの対偶にある。すなわち、「仕事や人生をがんばろうと思っていないひとにとっては何の役にも立たない」ということである。

 

たとえば今年売れたビジネス書の『1分で話せ』はタイトル通りいかにわかりやすいプレゼンをするかというノウハウ本なのだが、当然ながらこれは、わかりやすいプレゼンをする必要がある人のために書かれている。しかしこれもまた当然なのだが、わかりやすいプレゼンのスキルを身に着けたとして、それをなにに活かすのか、プレゼンをすることでなにをすればいいのか、ということまではこの本は教えてくれない。あくまでなんのプレゼンをするか、プレゼンをして何をしたいかが決まっているビジネスパーソンのために書かれている。当然だ。すべてノウハウというのは、そうした「すでに存在しているニーズ」に応えるため供給されている。

 

しかしさきほどから幾度も主張している通り、僕たちにはそもそもなにかをしたいという欲望がない。やる気がない。需要がない。というわけで、こうしたビジネス書や自己啓発書は意味がないはずなのだ。けれどもこの手の本は、ご存知の通りよく売れている。それではやはり、世の中にはすでに目標のある人、やりたいことややる気のある人がたくさんいるということなのだろうか。そうではない、と僕は考える。

 

ビジネス書や自己啓発書が売れるのは、確かに世の中の多くの人が目標ややりたいことをもっていて、それを叶える手段を必要としているからかもしれない。実際起業家の人はこうした本をよく読む(らしい)。けれどもそうした人たちの目標、やりたいことというのは、見せかけの目標、やりたいことでしかないのではないか、というのが筆者の読みである。というのは冒頭でいったとおり、それは本当の目的ではなく手段なのではないかと思うからだ。見せかけの目標、やりたいことをもっている人が、この国にはたくさんいる。そしてそれは、ビジネス書や自己啓発書のせいなのではないか、と筆者は考えている。

 

くどくど説明するのも無駄なので簡単に述べると、「ビジネス書や自己啓発書ブーム→起業、ノマドなどの自由で自律的で自発的な生き方が称揚→けれども僕たちはそういうことができない(やりたいことがない、というコンプレックス)→でもビジネス書や自己啓発書など、「手段」を研ぎ澄ませるためのツールだけはごまんとある→手段は揃っているので「目的」をねつ造する」というフローだ。

 

目的のねつ造とはなにか。やる気もなく、やりたいこともない僕たちは、その無力感に耐えきれず、なにか「絶対的なもの」に救いをもとめ、蜃気楼のように見えないものを「幻視」してしまう。それが「目的のねつ造」だ。僕たちは目的がないにもかかわらず、手段だけが豊富にある、ねじれた世界に生きている。そのねじれが僕たちに奇妙な逆転現象を起こしているのだ。そしてそれこそが、僕たちがいつまでも「やる気」を持つことのできない理由の一つにほかならない(次回へつづく)。