研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

考えずに書く、ということ

書こうと思うことはあるのに書かない、ということがしばしばある。

これが書く、ではなく、話す、だったらどうだろう。話したいことがあるのに話さない。なんだか別のニュアンスを帯びているが、それは話すのには他者が必要だが書くのには他者を必ずしも必要としないからだろう。

そう、何かを書くためには他者は必要ない。書くというのはけっこう孤独な営みだ。だから「今ここで書かなきゃいけない」みたいな切迫感がない。それゆえ、書こうと思うことがあっても書かないという事態が生じる。なんだか重い方向に話が運んできた。

そうそう、いかにして自由に書くかという話をするんだった。自由に書くとは何か。さっき思ったことだが、改行が多い文章というのは一般的には読みやすい。たぶんケータイ世代の人はとくにそうだろうと思う。読みやすいブログなんかもわりとよく改行されているのを見る。だから僕もそれを真似するのかといえば真似しないんだな、これが。なぜかというと、改行するためにはキーを一個余計に押さなくてはならないからだ。なぜ他者のリーダビリティのためにそんな余計な指の運動をしなくてはならないのか(さきほど、書くことに他者は必要ないと書いた)。

というわけで不要不急の改行は自粛する。僕の自由なライティングのためには、そんなことを気にしている場合ではない。

自由に書く。ここまで書いてきて、取り上げるべき事柄があと3つあるのではないかと直感した。とりあえずここは先に書いておくべきか。うん、そうだな、書かないと忘れてしまいそうだし。一つ、PCからスマホへ。二つ、一人称とダデアル/デスマス。三つ、自由連想法

PCからスマホへ。なにかまとまった文章を書くには物理キーボードが一番だというテーゼがある。そりゃそうだろう。しかし現実には、物理キーボードを用意して「ようし書くぞ」みたいにやってられないときもあるわけなんだな、これが。そういうときはスマホで書いてしまった方がよい。ていうか、昔俺はけっこうスマホでものを書いていた気がするぞ。高校生の時、iPod touchを親に買ってもらい、小説を書いたりとかツイッターを精力的に書きまくっていた。大学に入ってからはiPhone5Sを用いてブログを書いたりしていた。あのときは自分がどんなツールを使えばアウトプットが効率化できるかなんて考えてなかった。だって使えるツールはそんなになかったんだから。だから4インチのスマホでいろいろ書いていた。そういうことをやっていたのだ。

それで今書いてるときもそうだったのだが、けっこう僕は一人称がブレる。俺だったり僕だったりする。ま、校閲に見せるわけでもないんだし自由に書けばよいというわけだ。俺はすでに自由に書いているというわけだ。なあんだ。と、こうやって地道に自己肯定感を積み重ねていく。あ、これがさっき言ってた二つ目。そういえばダデアル/デスマスの話をしてないな。まあいいか。

そして三つめが……なんだっけ。ああそうだ、いま画面をスーッと上にスライドして思い出した。自由連想法……なんとも曖昧なワード。しかし過去の自分からのお題であるから答えなくてはならない。うーんそうだな、たぶん僕は高校生の時から、いや中学生の時から日記をかいていたわけだが、そこでもこのように、つまりまさにいまこうして書いている文章のように、思考の流れをそのまんまぶちまけるような文章を書いていた。シャーペンで、紙のノートに。こう、思考の流れを……なんかカッコいい比喩を探している。「シナプスを象るように」? なんか科学的に間違った比喩のような気がする。まあ、とにかく、こうして読点多めに、考えながら書く、的なことをやっていたことがあった。で、それが何の役に立つか? それは知らんけど、ひとつ間違いないのは、アンドレ・ブルトンのオートマティズムみたいな、すごいもんは生まれなかったということだ。所詮僕みたいな人間のできることは……っていうか、これは別に自由連想法でもオートマティズムでもないような。ただの思考垂れ流しだよ。思考垂れ流し。いい言葉だ。それがこうして自由に行えるというのがどれだけ贅沢なことか!

という感じで三つのお題を消化したわけだが、ここらへんでもういちど画面をスクロールしていこうか。

で、スクロールしたわけだが、序盤の文章の塊がやや読みづらいと感じ、いくつか改行を挿入した。こんなふうに、文章はいくらでも後から編集可能なのである。

あれだな、唐突に思ったが、緊急事態宣言中、朝と夕方の2回、エリア放送というか、注意喚起の放送が街に流れていたのだが、あれはやっぱりエリアによって違うんだろうか。「緊急事態宣言……発令中です……外出は……できるだけ……控えましょう……」みたいなやつ。たった2ヶ月のことだったが、妙に耳に残っている。

って、いったい何の文章だったんだ? これは。何の意味があったのか。と、ここではてなブログエディタによれば2020字。スマホでこんだけ文章を書いたのは久しぶりだ。なんだ、書こうと思えば書けるではないか。はっはっは。ということで次回はちゃんと書くことを決めて書く。執筆のリハビリテーション

あそうそう、さっきシャワーを浴びてるときに、何かを何回も書くことは「意味の希薄化」を招くのか否かということをちょっと考えた。ちょっとだけね。なので、ちゃんと展開する必要があると思われる。が、たぶん次はてなブログエディタを開くときにはもうこの問題意識は忘れているでしょう。